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2.現代詩を読む

No.2436/ 登録者:海神 727 字 [94/06/28 22:01]

詩に学ぶ NO1


  > 桜の木の下で、少年が球を投げてゐた、それが私には、はっきり
     見えた

                 (津村信夫「臥床」抜粋)

 現代詩もこのへんから入ると分かりやすい。球を投げる少年=健康。そ
れがはっきり見える私=病窓からそれを見ている。長い病歴。こうして病
弱な青年は「見る」習慣を手中にする。とけ込めない感じ。疎外感が逆に
「距離」を形成して行く。
 「投げ出された」という感じ。投げ出されたところに帰って行きたいと
いう感じ。帰って行こうとすればするほど遠くにはなれてしまう感じ。こ
れはまさしく「表現」そのもののメカニズムでもある。

      (参考文献 中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)

                             





No.2443/ 登録者:海神 1644 字 [94/07/02 03:38]

詩に学ぶ NO2


  > 海は湾の内に死んで
    灰色の背を見せ、
    家々は寝しづまっている。 

                  (伊藤整「月夜を歩く」抜粋)

  この場の海の表現としてはいろいろ言い方が考えられる。家々の表現と
 してもそうである。しかしこの3行をペアにしてみると一字一句がこれ以
 外には有り得ない表現となっている。そういう部分が集まって全体と呼応
 しあっている。
早く「荒地」「今日」あたりの詩作品に触れたい気もするが、この辺か
ら徐々に接近して行かないと難解に感じるかもしれない。(もっとも現代
詩の流れの中でどのグループがどういう主張を持っていたといったことに
関しては全く興味がない。あくまで表現として興味を持った部分というか
「部品」のコネクションが目的である)
 この引用の場合まず<海>が<湾の内>に<死んで>という表現に興味
を引かれる。広い海が狭い湾の内にという矛盾や、生物でもない海が「死
んでいる」といった表現が、それ自身矛盾を抱えているのに、詩的表現と
しては「これしかない」と感じさせる。矛盾が大きすぎると言葉として成
り立たないのに、詩作品の中ではむしろ大きな矛盾を包摂した表現が人の





心をとらえるのだ。しかし「どういう場合に矛盾が心を打つ表現になりう
るか。何故か」を問うことはここでは行わない。例えば表現の矢がラング
の「世界」の壁に刺さった時に(このとき矢じりの先端は世界の向こうに
突出している)この矛盾はようやく受け入れられる。しかし矢が壁の向こ
うに飛び越してしまったときにはそれは矛盾として破棄されてしまう。
 だが、弓矢の飛行理論をいくら学んでも我々はラングの的を射落とすこ
とはできない。突き刺さった一本一本の矢を集めることによって自分自身
の中の感性の弓を鍛えなくてはならない。

                            



2448


No.2448/ 登録者:海神 934 字 [94/07/05 00:39]

詩に学ぶ no3


  >  生きものの命断つ白い鋼鉄の器具で、あのように冷たく武装しなけ
    ればならなかったものは何であったのか。  
 
                  (井上 靖「猟銃」抜粋)

 少年のころ、村の男が猟銃を担いで狩りに出るのを見かけ強い印象を感
じる。大人になって、詩や小説を通して人生を追求する、その苦悩の中で
見えそうで見えないものがある。そういったときにふと詩人の心に蘇った
ものがあの日の猟銃であった。この詩によって詩人は猟銃にはじめて「意
 味」を与えたのだろう。

 
 > 死よりもいやな空虚の中に私は立っている
    レールが刃物のように光っている

                  (高見順「汽車は二度と来ない」抜粋)

 最終電車が通り過ぎたのに、誰もいないホームからじっとレールを見つ
めている自殺志願者。通り過ぎてしまった死がもう二度と来ないところに
彼はいる。その無意味さの絶望的なアイロニー。






 
   海神


2456


No.2456/ 登録者:海神 490 字 [94/07/05 01:29]

詩に学ぶ no4


 > 竹の葉は無心にさやぎながら
    頂から少しずつ陽ざしのなかに溶けてゆく

                  (伊藤桂一「鳶の音楽」抜粋)

 詩人は竹林の中で竹を見上げている。竹の葉が陽ざしの中に溶けてゆく
彼方から鳶の声が聞こえて来る。それは遠い日のふるさとの村で聞いたあ
の鳶の声である。その鳶の声を聞きながら、詩人自身もエーテルのように
溶けてゆき、少年の日のふるさとの野山を漂っている。

海神


2473


No.2473/ 登録者:海神 567 字 [94/07/07 00:40]

詩に学ぶ no5


 > ああ 蛸のぶつ切りは臍みたいだ

                  (井伏鱒二「逸題」抜粋)

 新橋に蛸がメインメニューの飲み屋があったが、あれがこの詩の舞台で
ある「よしの屋」だったかどうか定かでない。高見順のようにじっと死を
見つめ続けているような詩のあとでこういった一節にぶつかるとほっとさ
せられることがある。深刻でない話し口調の言の葉に、いわば陽性の虚無
が顔を覗かせる。
 ああ、地獄の悪魔が呟いていそうな気がする。

「臍のぶつ切りはタコみたいだ」 (^_^;)

海神


2479


No.2479/ 登録者:海神 653 字 [94/07/09 00:24]

詩に学ぶ no6


> 神戸はおしのを呑んでしまった。
  俺あひとり
  田圃の中の停車場にのこされた。

            (木山捷平「おしのを呑んだ神戸」抜粋)
 
 なんと言えばいいのか分からないほど古い。「さびしいのに何故行くん
だ? 」製紙工場に出稼ぎに行かないと食って行けない、貧しい農村の現
実。むかし可愛いお姉さんに山谷を案内してもらったことがある。山谷に
居ついている労働者と出稼ぎの人たちの対立が問題になっていたが、今で
は多分外国労働者との問題が出てきてるんだろうと思う。それにしても何
でこんなところに昭和初期の作品が出てくるんでしょう(^_^;)

海神


2480


No.2480/ 登録者:海神 613 字 [94/07/09 00:26]

詩に学ぶ no7


> ひとりひとりの顔をみつむれば
  ことごとくわが顔
  おどろきて空をみあぐれば
  星もみえず。

                   (大江満雄「飢ゑ」抜粋)
  飢えて死んだ人が空に逃げることもできないでさ迷っている。地上にう
 じゃうじゃいるそういう死人の顔をひとつひとつ見たら、どれもこれも自
 分と同じ顔だった。なんともオソロシーイ世界。「飢ゑて死せるもの」を
 どう捉えるかで感慨の質も違ってくる。

                             


2481


No.2481/ 登録者:海神 1584 字 [94/07/09 00:28]

詩に学ぶ no8


> ああ 自分からなにか去っていくのを感じるのは
  なんという怖ろしいことだろう

                   (嵯峨信之「死の唄」抜粋)

  死は究極の孤独である。人はこの最後の吊り橋を渡って帰らぬ世界へ旅
 立つものらしい。
  死の扉は、いつも不気味に静まりかえっている。それは例えば高見順(
 「死の扉」より抜粋)にとっては

  > いつ見てもしまっていた枝折戸(しおりど)が草ぼうぼう
    のなかに開かれている
  
  であり、深夜の病室でじっと目をこらして見つめるようなものなのだが
 嵯峨信之(「死の唄」より)にとっては

  > 夕ぐれ白樺の幹からそっと泉へ消えていくものと同じものが

  去っていくようなところなのである。
  しかしもっともっと恐ろしい死がある。人々の夢も生活も一瞬にして粉





 々にしてしまうような死がある。

  > 遠き日の石に刻み
        砂に影おち
    崩れ墜つ 天地のまなか
    一輪の花の幻

                   (原民喜「碑銘」)
   
  原爆で黒こげになった死体が川を流れていく。ぼろぼろになった血みど
 ろの顔が逃げまどい、母を呼ぶ子供の叫びに振りかえる人もない。この詩
 人の残した原爆の生々しい光景を綴った片仮名の詩編(「コレガ人間ナノ
 デス」など)は引用するのに耐えられないほど痛々しくリアルだ。このや
 りきれない悲しみと怒りを、忘れてしまってはいけないのだが・・・
  この詩人はもともと大変近代的に昇華された叙情的な詩を手掛けていた
 ものである。それを一瞬にして自らの叙情性を昇華させることを許されな
 い「語りべ」に変化させてしまったものを恐れずにはいられないし、憎ま
 ずにはいられない。 

海神


2493


No.2493/ 登録者:海神 667 字 [94/07/10 13:39]

詩に学ぶ no9


> 私の死は花の散りがたに
  花ある人の花のおもいに。
  埋もれる(だろう)
   野ざらしに花は
   散りかかる(だろう)

(伊藤信吉「花」抜粋)

散文に分解してしまうとなんともおもしろくない古いタイプの詩になっ
てしまう。「。」や()の使い方に注意すると詩人としての自意識の中に
突出した近代性を感じさせられてしまう。博徒や流刑衆を愛し、言葉その
ものは決して新しいものを使っていないこの詩人が現代詩に星のような光
を投げかけているのはこのような自意識の画期性においてであろう。

                             


2496


No.2496/ 登録者:海神 1267 字 [94/07/11 01:46]

詩に学ぶ no10


> ― お前、お前はもう居ない。記憶だけがお前を家庭の椅子にの
  こしてゐる。椅子の凹(くぼ)みに。

                 (阪本越郎「死んだ人」抜粋)

「お前はもう居ない」で、「お前」の死を改めて表示し、「記憶だけがお前
 を家庭の椅子にのこしてゐる」で、家庭の椅子に座る「お前」の像をイメージ
 させる。そのあと「椅子の凹みに」で突然終止させることで像は消え冷たい椅
 子とそのくぼみだけがはっきりとした実在として残る。実在するものがはっき
 りと現われることで実在しないもの(死んだ「お前」の非在=死)が確実なイ
 メージとして印象を残す。
  この「お前」は実在した特定の人物を表すのでなく、また作者自身でもない
 「ある死んだひと」、架空の死者を表している。このように、作者と対象との
 「距離」の拡大は、常に「客観性」と「虚構性」の拡大という側面を担ってい
 る。「客観性」の拡大とはここでは作者と対象の距離の広がりによる、両者の
 介在する「場」のズームレンズ的拡大を示している。
  椅子や凹みはある具体的な実在を表している。しかしこの椅子は現実か?
 この椅子は作者の生活の中の椅子か?そうではなく実在の象徴として作者に作
 られた椅子である。架空の椅子が実在の象徴として表されている。
  このように、表現の深化は自ずと虚構性を担うものなのである。





             海神



2506


No.2506/ 登録者:海神 972 字 [94/07/13 23:24]

詩に学ぶ no11


  > 夜がくれば、あれもまた黒くなる。目だけを残して。谷間は影でいっぱ
   いになる。

                  (阪本越郎「桜の木の下」抜粋)

  あれ=子ネコ。幹ばかりになった桜の木の下でチェホフが育てる猫の子は牛
 乳で育ったので白い。その白い猫の子も夜がくれば闇に包まれて黒くなる。 
 「目だけを残して」のあとの「谷間は影でいっぱいになる」が大変効果的であ
 る。こういった表現は散文の中でも可能だ。

  > 大きな木が一本
    町の中を練っていく
    それをひくのは蛮刀のような角の牛だが
    後押しするのはやさしい春の夕暮れです

                  (阪本越郎「大木」抜粋)
  
「蛮刀のような角の牛」と「やさしい春の夕暮れ」の対比がなんとも効果的
 だ。春の夕暮れが後押しするというのも(冬や夏だと後押しする感じじゃない
 が)こう表現されてみればなんとなくよく分かってしまうし、「やさしい」と





 形容がこれほど生きているテクストは他にない。

海神





No.2507/ 登録者:海神 772 字 [94/07/16 04:14]

詩に学ぶ no12


  > 「まだまだ
骨がしゃぶれるよ」

    おれたちはふりかえり
鴨の笑いと
     光る竜骨を見た

(会田綱雄「鴨」抜粋)

  鴨ネギを食って立ち去ろうとした人間達を骨だけになった鴨が呼び止め「ま
 だまだ骨がしゃぶれるよ」と呼びかけるというオソロシー話。虚構性と寓話性
 に関していろいろ考えさせてくれる。この鴨はいったい何ものなのだろうか。
 羽をむしられて煮て食われたあげく「おい相棒、まだ骨が残ってるぜ」と声を
 かける気色のわるい奴。偉いものを食っちまった。鴨がどうやって笑うかって
 そりゃあ地獄の悪魔の哄笑よ。今度はおめえたちの番だぜ。そんときや、骨も
 しゃぶってやるからな。いっときも早くこっちへ来いよ。ふっふっふ・・・

海神



2510


No.2510/ 登録者:海神 2711 字 [94/07/18 01:03]

詩に学ぶ no13


  > 空から小鳥が墜ちてくる
    誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために
    野はある

    窓から叫びが聴こえてくる
    誰もいない部屋で射殺されたひとつの叫びのために
    世界はある

  この作品がたぶん戦後の詩的表現の最初のピークではなかろうか。
  それまでの文学作品にとって風景は現実の模写でしかなかったわけだが、
 このあたりからそれが意識の模写であったり、やがて意識下の世界の模写と
 して表現されるようになる。そのへんの事情を飲み込んでいないと詩は難解
 でわけの分からないものになるようだ。
  誰もいないところで小鳥が射殺されるわけがない。誰もいない部屋で人が
 射殺されるわけがない。叫び声だけが窓から聴こえてくるわけがない。にも
 かかわらずこの小鳥と野が、また窓から聴こえてくる叫びが実感できるとし
 たらそれは「どこで実感できているのか」と自問してるみるべき事柄なのだ
 ろう。
  しかし心理としての下意識と表現としての下意識とは明らかに違う。表現
 としての下意識には、「距離」の反対の大きさといったベクトル的概念が適





 用されると思われる。もう少しこの点を突き詰めて行くと個人が表現の壁を
 突破するためには言語が社会的に、ある「膨らみ」を所有する契機が前提と
 されることが分かってくる。逆に言えばこの「膨らみ」を利用して我々は詩
 に接近することができるのである。例えば同じ詩人に「立棺」という詩があ
 る。

  > わたしの屍体を火で焼くな
    おまえたちの死は
    火で焼くことができない
    わたしの屍体は
    文明のなかに吊して
    腐らせよ

      われわれには火がない
      われわれには屍体を焼くべき火がない

                  (田村隆一「立棺」抜粋)

三連百行を越えるこの詩の意味内容は分からなくても、我々は「音楽性」
に助けられてこれをとりあえず何とか読み切ることが出来る。そのうち「わ
たし」「おまえたち」「われわれ」が分担するフレーズを頭の中で整理して、





ようやく意味内容あるいは作者の「意図」を理解する。この時、例えば「文
明」というコトバが、この詩の書かれた時代に詩表現の場でどういったイメ
ージで受け取られていたかを考えることは理解の手がかりにとって大変有効
である。何よりも表題の「立棺」というコトバのイメージからしてそうであ
る。田村隆一はこのコトバやイメージを鮎川信夫や中桐雅夫の詩から直接に
吸収しているのである。そのことを知ることはこの詩の解釈にとって有効で
ある。しかしこの詩の意図や意味内容を知ったからと言って「実感」の質が
深まるわけではない。それは現時点での詩表現での下意識の到達点が、この
詩の作られた時点でのそれとはるかに異なっているからであり、そのことが
またこの作品を受けとめる実感の質をより深いものにする可能性をももたら
しているのである。こうして、我々は「書いて表現する」ことと同じように
「読んで、分かる」ことによって、ラングの壁に表現の矢を射ることができ
るのである。 
    



2522


No.2522/ 登録者:海神 920 字 [94/07/21 00:55]

詩に学ぶ no14


> (おぼえておこう、車が大きく揺れるたんびに、器の水のようなもの、
    たとえば、心のようなものが、あおりを食った……)

  「歓楽の場はいつも彼を悲しくした」というのがこの詩の出だしである。
明るい集いの場に溶け込んでいけない気持ちは、人々と自分の間に距離を形
 成する。その中に入っていけない気持ちは、人々の動作や自分の気持ちを言
 葉に還元してしまうことで昇華されるのである。
  それは集いの場に限らない。たとえば花を見るときにその美しさに陶酔す
 ることは自然な人間の心性である。しかし「冷たい陶酔」と言われるように
 詩人はその美を誰よりも強く感じるのであるけれども、それをコトバに還元
 するために心の片隅で冷たく花に距離をおいているのである。
  このような芸術家の心性はトーマスマンの「トニオクレーゲル」において
 如実に表現されている。むかし、吉行淳之介、北杜夫などが「トニオクレー
 ゲル」のこういった部分に言及していた。

海神


2527


No.2527/ 登録者:海神 1119 字 [94/07/24 21:54]

詩に学ぶ no15

  
  > 引き返さなければおれは殺される
    だれもしらないこんなところで
    おれは殺される

                  (鳥見迅彦「けものみち」抜粋)

けものみちのどんずまりに知らぬ内に追い込まれてしまった「おれ」に襲
 いかかろうと、けもの達は木や草の影に隠れて、こちらをじっとうかがって
 いる。やがて森が闇に包まれる頃、彼らはいっせいに襲いかかっておれをば
 らばらに引き裂き喰いつくすだろう。絶体絶命の恐怖の情景。
  人は誰しも心の奥底にこれに類似した恐怖を持っている。人が本来的に持
 っている、あるいは持ち得る喜びや希望または不安、恐怖。そういったもの
 は、あらゆる契機を経て夢や物語や詩を形成するのだ。だから自分の中にあ
 るそういった希望や不安などに対し敏感で、注意深くなければならない。そ
 ういうところから出発するのでなかったら出来てくる作品は単なるつくりも
 のになってしまうだろう。
  それにしても、都会の街角を歩いているときにさえ、突然われわれの眼前に     あらわれて恐怖にさらす「けものみち」。われわれを追い詰めてやがて喰い殺
 そうと虎視眈眈と狙っているあいつらはいったい何ものなんだろうか。
                                 海神


2545


No.2545/ 登録者:海神 755 字 [94/07/31 01:12]

詩に学ぶ no16


> しまった。見やぶられたか。
  しかし。いかにもさよう。

                (及川均「磔刑台」抜粋)

  居酒屋のキリスト。一杯ひっかけようと居酒屋に立ち寄ったが客席が変に
 静かになり、やがて、この野郎お前が諸悪の根源じゃあねえか、と大騒ぎが
 はじまった。なんたってキリストは宗教を悪魔の呪縛(誘惑=パン、奇跡、
 権力)から救った主だ。ところが呪縛から解放されたくない人間の方が圧倒
 的に多い。自由になったって何をどうすればいいのかさっぱり分からない。
 よけいなことをしやがって。この野郎。客席はまさに怒号の渦。このときキ
 リスト少しもあわてず、にっこり微笑んでつぶやいた

  > 酒を。一杯。
        (上述)
         


2550


No.2550/ 登録者:海神 1886 字 [94/07/31 23:59]

詩に学ぶ no17


> 過ぎてもなお形を
  のこしているセミのなきがらが
  テレビのポールにとまって
  激しく声をあげている

                (土橋治重「セミのなきがら」抜粋)

 渋谷の喫茶店で若い男と女が会っている。これが最後になるかなと男は思
う。女は自分に見合いの話があり郷里に帰らなければならないと言う。男は
ふと、この女を手放したくないと思う。女は男のもとにとどまる。そこから
同棲生活がはじまるのであるが、愛でもなければ生活でもない二人の暮しは
不安定そのものである。ある日女は失踪する。なきがらで帰ってきた女の体
は断崖から飛び降りた時の衝撃で傷だらけである。男は女の体にまるで自分
だけの宝物のように大事に思っていたあのホクロを捜す。しかしその部分は
深く傷ついておりホクロは見つからなかった。
 女のことはすぐ忘れられた。しばらくして男はフリーター生活から足を洗
ってサラリーマンになる。ある日ふとアパートの軒下に鉢植えの芙蓉が花を
つけているのを見る。いつからそんなところに芙蓉があったろう。次の年に
は花をつけなかった。そしてそのまた次の年にはすばらしい大輪の花をつけ
た。一つの花は朝だけ数時間の命であるが翌日にはまた別のつぼみが開いて





いく。大きな純白のはなびら、その赤い中心部。それが、ある朝突然なくな
っていた。鉢ごと、どこかに消えてしまった。大家や、近所の店先で男は芙
蓉の行方を尋ねて歩いた。いつまでもいつまでも、大輪は男の心を去らなか
った。
 一年後、男は今も心を去らない芙蓉の大輪を思いやりながら、蝉時雨を浴
びつつ窓からおもてを見やった。そしてひと際激しく鳴く蝉の姿を隣の大家
の庭の木々に捜した。しかしいくら捜してもそれらしいものは見つからない。
もう一度耳を凝らして鳴き声の方向に照準を定めるように視線を投げると、
テレビアンテナのポールの上にそれは見つかった。中身を残しているかのよ
うな蝉のなき殻から、それは確かに聞こえてきている。過ぎてしまったはず
のものが、他にも増して存在を主張し続けているのであった。

                             


2571


No.2571/ 登録者:海神 575 字 [94/08/06 23:47]

詩に学ぶ no18


> 時とすると
  あっという間に
  空中へ抛り上げられ
  大きな掌の中に 手品のように
  すっぽり収められてしまうのだ

                (上林猷夫「白いカード」抜粋)

1枚のカードにされてしまっている人間。文明社会の中で機械の歯車とし
て決められた行動様式をとり、決められた思考・選択様式をとらざるを得な
くされている人間。このころの詩はこうした文明社会論の影響を強く受けて
いた。それにしても旨い言い回しを使うものだ。手品のようだ(^_^;)

  海神





No.2572/ 登録者:海神 655 字 [94/08/07 01:33]

詩に学ぶ no19


> 毎日 朝刊と一しょに
  私をのせた戸板が運びこまれてくる−
  生ぬるい味噌汁をすすってから 私は
  今日も
  暗いトンネルの踏み板を降りてゆく

                (桜井勝美「暗いトンネル」抜粋)

日常の中に潜む死の恐怖、気持ち悪さ。夜明けと共にそれは私たちの背後
にまとわりつき、生活と共に歩みの1歩先に落し穴を堀ながら待ちかまえて
いる。事故死などのニュースを見聞きするたびに「自分でなくてよかったな」
と思ってしまうものなのだが、どっこい死神はすでに我々めがけて巨大な斧
を振り降ろしたところかもしれないのだ。

                            





No.2573/ 登録者:海神 1146 字 [94/08/07 02:11]

詩に学ぶ no20

 
> 生きている猫のあたりは消え
  死んで土にひっついた魚の骨の上に
  意味もなくふくれようとする小さな自然
  死の骨が図太くいきいきと匂うのだ

                (天野忠「死の骨」抜粋)

生きているものよりも死んでしまったものの残骸が日を浴びて腐って臭う
そのことによって「自らの充実に撓みながら」いきいきと匂いつつ散らばっ
ている。
 私の勤務先のビルの屋上にはよく鳩の骨が転がっている。すぐ側に公園が
あってそこに棲息している鳩がカラスの餌食になるのだ。都会の鳩はだんだ
ん羽が黒くなってきているという。緑がなくなり、棲息空間が狭くなったと
ころで、白い奴はカラスの標的にされやすい。それで黒っぽいものが生き延
びることになるものらしい。
 骨だけでなく、時々中身が転がっている。羽根をむしられ、皮を剥がされ
たなかみだけが屋上の片隅にぼちょっと置かれていたりする。カラスは鳩の
肉は食べないのだろうか。私はそういうものを見るのが非常に苦手なのであ
わてて一目散に逃げていく。しかし、そういうものも冷たい詩人の目でじっ
くり観察しなければならないのだろう。とても、とても詩人にはなれそうに





ない(^_^;)

海神





No.2574/ 登録者:海神 980 字 [94/08/07 03:09]

詩に学ぶ no21


> あの雪渓と雷鳥のねむりはぼくらの渇き
  霧にまかれ
  きれぎれの雲をくぐり
  おお そのながい苦痛のあとに
  今 行手に 一つの大きな夏がやってくる

                  (秋谷豊「登攀」抜粋)

  登山家である詩人が絶壁を登りながら「ぼくらをいまこんなに垂直にする
 ものは/なんであろう」と問いかける。それはふいに墜落していくおのれの
 生涯といった、めくるめく終結の予感を内包する季節のエネルギーに対する
 「ぼくらの渇き」ではないだろうか。登山にはなんの興味も持たない私であ
 るが、この詩には感動した。また、ロッククライマーでもある詩人という存
 在が不思議で不思議でならない。絶壁をのぼるという行為と、その意味を問
 うことや登ることをコトバでとらえることや景色を表現を前提としながら見
 つめることの「遠さ」を思うとき、詩人という奴はなんてすごいやつかと、
 あらためてため息がでてしまう。

                              





No.2575/ 登録者:海神 850 字 [94/08/07 04:46]

詩に学ぶ no22


  > たった一人の心の中で
    青年も 少女も
    自分の心のきびしい存在に気づいておびえるだろう
    この一本の道は夕日にあはあはと白くかがやいている

                  (小山正孝「道」抜粋)

会っているうちには愛と希望を語り合う青年と少女も、さよならを言って
別れた瞬間に一人一人の存在になってしまう。愛で一つに結ばれていたはず
のものを、わけのわからない力がぶち壊してしまう。それぞれが、自分がた
だひとりだったのだということに気づいて寒々としてしまう。「この一本の
道は夕日にあはあはと白くかがやいている」という1行はこの詩の最初と最
後に置かれており、詩の読み初めに心の中に映る道と「あはあは」から受け
るイメージが、読んだ後で形を与えられて明確で的確な印象として残るよう
に技巧されている。この「あはあは」が、いいですね。

                             





No.2576/ 登録者:海神 1466 字 [94/08/07 05:49]

詩に学ぶ no23


  > うち海の潮の蒼さをうつした頬に
    月の光はしづかにゆらぎ

     (福永武彦「続・ひそかなるひとへのおもい」抜粋)

  > 遠い心の洞のなか
    扉のひらく時を待ち
    乱れて眠る赤はだか
    緑の髪の娘たち

                  (中村真一郎「真夏の乙女たち」抜粋)

  この辺の詩についてはまったく分からないのだが、両方の詩とも「距離」
 という点ではあまり違いがないようである。いくつかの詩を読んだ感じでは
 福永武彦の詩は古いタイプに属すようだし(そういう意味で「詩」的な作品
 も多いと感じる)、中村真一郎の定型押韻詩には頭をかかえさせられるもの
 が多い。形式=音楽性の展開は新しい詩を創造する方向には向かわなかった
 のだろうか。「非定型」も「定型」であると思われる面があり、両者はいつ
 でも自己を打破できる緊張感を保持すべきだ。



2612


No.2612/ 登録者:海神 1252 字 [94/08/20 10:15]

詩に学ぶ no24


 >  おお その聖なる瞬間
わたしは忘れ わたしは忘れ去られる
死骸が墓のなかに落ちこんでゆくように
   わたしはわたし自身のなかに落ちてゆく

               (中桐雅夫「新年前夜のための詩」抜粋)

大晦日の夜、ある時が来ればそこから年が開けて新年となる瞬間。えんえ
んと連なる過去が、その時と共に未来に落ち込んで行く瞬間。昨日までのわ
たしの抜け殻が捨て去られ、運命の新しいクレバスのなかに滑り落ちてゆく
瞬間。その「聖なる瞬間」のすさまじいダイナミズムの前に暗澹とたたずむ
詩人。しかし、そのまなざしは表現者としてあくまで覚めており、「冷たく
またあわれなすべてのもの」や「ちいさな不幸」を見逃さない。
 ここでは対象との「距離」は、時間というか「瞬間」に対して設定されて
おり、詩人はその中に自分を投げかけていると言える。表現の対象はものや
心の奥の表象のみならず、こうした「時」「瞬間」であることも可能だ。こ
うして「距離」は次第に現実の足場から浮上して行く。
 一つ一つのフレーズを追って行った限りではそれまでの詩表現との距離は
そう遠くない。しかしこの詩を読んだときに感じる画期的な感じは歴然とし
たものである。というか、この詩にはこれまでの詩表現を集約し新しい世界
に一歩踏み出したという感じを与えられる。

                             





No.2613/ 登録者:海神 1648 字 [94/08/20 14:53]

詩に学ぶ no25


> 真夜中 眼ざめると誰もいない−−
  犬は驚いて吠えはじめる 不意に
  すべての睡眠の高さに跳びあがらうと
  すべての耳はベッドの中にある
  ベッドは雲の中にある

                (三好豊一郎「囚人」抜粋)

難解に感じるのは「すべての睡眠の高さに跳びあがらうと」の1行である。
「すべての睡眠の」と「睡眠の高さに跳びあがらうと」。分かりにくい表現
が重なっているのでなお分からなくなる。
 「すべての睡眠の」は次の行の「すべての耳はベッドの中にある」と同じ
ように、ひとつのものを特に強調するのに凝集的効果を狙った表現である。
 また、「睡眠の高さ」というのは「眠りの深さ」などの逆表現で、散文的
に表現するならば犬の鳴き声で目覚める前の睡眠の深さを犬が跳び上がる像
的イメージと重ねて表現しているということか。
 しかし詩表現をこうして「話言葉」で分解して分かってしまうことが「分
かる」ことではないのは言うまでもない。この1行はあとの連の「とびあが
ってはすべり落ちる絶望の声」と呼応し、現実からの浮揚性を保有するとと
もに、詩人と対象の「距離」を保証している。この犬は詩人の心の牢獄で叫
び跳びあがろうともがいている「vie(生)の犬」でもあるのだ。
こうして、どんなに難解な詩表現も、案外卑近なコンテクストを利用して
解釈することが可能である。それを時代と共に可能にしてしまうものは、い
わば表現の(下意識の)社会化とでも言えよう。とにかくここでは多少の勘
違いと思われることでも、先に進むためには仮に許されるとしよう(^_^;)。 
われわれの目的はとにかく現時点ではどうにも解釈不能でありながらなお緊
張と魅力を保持している、ラングの壁に突き刺さる「矢じり」を捜し当てる
ことだからである。

                             





No.2614/ 登録者:海神 1188 字 [94/08/20 18:20]

詩に学ぶ no26


 > 運命は
   屋上から身を投げる少女のように
   僕の頭上に
   落ちてきたのである

                 (黒田三郎「もはやそれ以上」抜粋)

 ここで「屋上から身を投げる少女のように」は、単に、運命がどのように
詩人の身辺に降り掛かってきたかという「意味」を、屋上から身を投げる少
女の「像」を借りて表現した直喩であると受け取れる。
 しかし詩を読み進むと、この「少女」は、荒廃した状況のなかで、なくす
べき物さえ何もなくなっていた詩人に、「失うものを・私があなたに差上げ
る」と語る少女に他ならないことがわかる。そう考えると「喩」というのは
表現された喩自体で捉えられるべきものでなく、詩全体の中で、詩の構造の
中で捉えられねばならないという気がしてくる。
 それにしても、この、屋上から降ってきた(^_^;)少女が、詩人にとってい
かに大切なものであったか、そのことによって戦後詩そのものにとっていか
に大切なものであったかを思いめぐらせないではいられない。黒田三郎はこ
の「少女」と結婚しやがて「ユリ」という娘を儲ける。女房をネタに1冊、
子供をネタに1冊詩集を出してこれがいずれも戦後詩の代表といわれる作品





群を形作るのだからうらまやしい。いや、うらやましい。

                             





No.2615/ 登録者:海神 325 字 [94/08/20 22:23]

詩に学ぶ no27


> とおくまでいくんだ

                (吉本隆明「涙が涸れる」抜粋)

吉本隆明の詩はさっぱりわからなくても、このフレーズだけは心に残る。
われ われもラングの壁を越えて、出来るだけ遠く表現の彼方まで行きたい
と思う。

                             


2618


No.2618/ 登録者:海神 813 字 [94/08/21 00:54]

詩に学ぶ no28


 > 何によって、
   何のためにわれわれは管のごとき存在であるのか。
   橋の下のブロンドのながれ、
   すべてはながれ、
   われわれの腸に死はながれる。

                 (北村太郎「雨」抜粋)

 この詩は横浜の外人墓地を前にしている。雨が降っており、墓地の向こう
には街が煙っている。丘のふもとにはパン工場があり、こげ臭い匂いが流れ
てくる。ここではすべての情景が死のイメージに浸されており、人の体内を
通る血管や空気・食べ物の通る管までが死の影にさらされている。
 墓地の情景と「管のごとき存在」はこの詩のなかでしか結びつかない。詩
として読むのでなければ結びつかない要素が「死のイメージ」を介在しては
じめて結びつくのだ。ここでも喩は単独にでなく詩の中で機能的に動作して
いる。
 
                              


2649


No.2649/ 登録者:海神 749 字 [94/08/28 01:15]

詩に学ぶ no29



  > 「ううううう
     内部のものは消えてしまった
     みんな消えてしまった」
    世界の中心に吊りさげられた電球のしたで
    時間をうしなった目覚し時計が鳴っている

                  (木原孝一「声」抜粋)

  恐ろしい破壊の通り過ぎた後、町には平和な時のままモノは残っているの
 に生命のあるものがみんな消えてしまって小さな叫びや囁きの残滓のみが聞
 こえて来る。原民喜の詩と比べると、表そうとする事実のすさまじさが迫っ
 て来るそれよりも、こちらの詩は明らかに詩人の中から迫って来るものがあ
 り現実のすさまじさは暗喩として暗示的に機能している。具体的な事物を表
 現するほどそれが一層内面深い現実を感じさせ読むものをすくませてしまう。

                              





No.2650/ 登録者:海神 897 字 [94/08/28 01:17]

詩に学ぶ no30


  > 存在のもつ静寂は時に
    無のもつそれにもましてかすかだ
    だが近づくと
    かれらのひそかな身ぶりがあらわになる

                  (谷川俊太郎「ソネット 50」抜粋)

  なんという豊饒な表現力だろう。現れてみると存在は確かに無よりもかす
 かな静寂のなかから出てきたように感じられることがある。いや、われわれ
 は眼に入ったモノをすぐに物と決めつけてしまって疑わない。しかし詩人と
 いう奴はなんと丁寧にものをみるのだろう。その辺にころがっている鉛筆と
 か本が眼にはいる過程を実に冷静に描写するとこうなるのだ。そしてわれわ
 れはいとも簡単に「鉛筆」「本」と言ってしまってそれで万事かたづいてし
 まう。しかし詩人はごまかさずに大切に大切にモノに近づいて行くのだ。こ
 うして注意深く丁寧に対象を受けとめていく、それが詩人の、世界に対する
 愛だと言われれば、もう絶句してしまう他ない。







No.2651/ 登録者:海神 772 字 [94/08/28 01:18]

詩に学ぶ no31


  > その目は煙らない
    その目は寂しい沖にとどく
    遥かなる実存の小島へ
    その目は ずい! と接近する

                  (安西均「実朝」抜粋)

  「実存」とか「抽象」といった言葉が、ある「距離」を保証する言語とし
 て用いられた経緯があったようだ。この引用部分から「実存の」というコト
 バを除くと、歌人が現実の小島をズームレンズのように見る情景が浮かんで
 くるだけだが、1語を附加しただけでそれがある内面性と仮構性を保有する。
 「抽象」に関しては

  > 叫ばんかかの抽象のかの雲の楡の真上のたまらなき朝

                  (加藤克己「球体」抜粋) 

  この辺の「実存」「抽象」といった使われ方は対象に対して同距離である
 と思える。






                              


2682


No.2682/ 登録者:海神 1031 字 [94/09/04 19:43]

詩に学ぶ no32


> みんな ねむっている
  けだものの おなかの なかの
  とろけていく ひとの
  ゆるされて みんな
  ひらうの 美しさに ねむる
                         コーラス
                (山本太郎「深夜の合唱」抜粋)

「けだものの おなかの なかの」は「とろけていく」様を表す「ひと」
にかかる暗喩である。夜行列車の乗客はみんな引用部分のように疲れて寝入
っている。その中で2人だけ、すなわち「かったいびと」(癩病患者)と詩
人だけが、「かさ・かさと 」口笛をならし、また片目でそれを眺めている。
おおまかには非常に分かりやすいが、子細に検討すると部分的に分からない
ところがたくさん出てくる。渡された不慣れな言語のプログラムを命令一覧
表を片手に四苦八苦しながら行を追って行くような苦しみだ。言葉の概念や
幾通りかに解釈できる表現。個々の表現にはそれほど新しいものはない。に
もかかわらず確実に「距離」を伴って深い共感を呼び起こすリズムが、この
詩にはある。
       
                              










No.2683/ 登録者:海神 981 字 [94/09/04 19:44]

詩に学ぶ no33


> ぎっしりせばまった、壁に、色のわるいソーセージのように、女が挟
 まれていた。壊れた、危なげな、細い細い窓枠の上で、かすかな光の中
 へ、急に、女がのけぞったとき、その垂直に垂れた黒い錘(つむ)のよ
 うな髪は、こんもりと茂った樹のようであった。

                (安東次男「樹木開花」抜粋)

ここまで来ると詩はそれだけでは作者の意図を読み取れないものとなる。
一般的には「作者」「時代」というコンテクストを参照し、朝鮮戦争勃発時
の暗い世相のなかに「開花期」を見いだそうとした詩だと解されているよう
だ。しかしそれよりもこの詩はシュールな像をつくるのに成功しており、そ
れが幾様もの解釈を豊かに喚起する。「壁に、色のわるいソーセージのよう
に、女が挟まれていた」は巧妙な直喩的暗喩で、読者をつくられた世界の中
に一気に取り込んでしまう。詩はこうして、そのままでは読者を自らの「距
離」に取り込めない高みに引っ張りあげる手法を手にしたのである。




2699


No.2699/ 登録者:海神 730 字 [94/09/10 14:58]

詩に学ぶ no34


> その時にはちょっと胸をはって、
  むかしのぼくのように言ってごらん、
  <マクシム、どうだ、
   青空を見ようじゃねえか>

                  (菅原克己「マクシム」抜粋)

  「距離」をなるべく悟られまいとする詩もある。この詩の場合それは読点
 の使い方や<>の用法の中に閉じ込められている。この種の詩作品の場合は
 現実に足を引っ張られて飛翔できないのではないかと勘繰ってみたくもなる
 が、そういうとらえ方はむしろ通俗的であろう。まあ、見上げる青空さえも
 無くなってしまってはいても、とりあえず食うのにこまらない日々をよしと
 しよう。    

                              





No.2700/ 登録者:海神 992 字 [94/09/10 14:59]

詩に学ぶ no35


  > あれはどこかにいるのさ。
    背景のない舞台で
    スポットをあび
    役者のようにうずくまっている。
    アウシュビッツで 
    殺されたユダヤ人の眼鏡のように
    ぼくからきり離されて。

                (関根弘「レインコートを失くす」抜粋)

  レインコートをなくしてしまった。ゆうべはしご酒の途中にどこかに置い
 てきた。どこでなくしたのかまったく思い出せない。「記憶は立ちどまれな
 い/海の上の蝶」だ。あのレインコートは今ごろどこでどうなっているんだ
 ろう。どこかの飲み屋の客席の片隅に置かれたままになっているんだろうか。
 そんなところでまるで役者のようにうずくまっているのか。まるで、アウシ
 ュビッツで殺されたユダヤ人の眼鏡のように・・・まるで、アウシュビッツ
 で・・・
  飲んだくれてなくしたレインコートの行方を思う日常性のなかで、突然詩
 人の想像力が紬ぎ出した比喩がぐさりと突き刺さる。飲み屋で失ったレイン
 コートのように、失ってしまっていた歴史の傷。






                              





No.2701/ 登録者:海神 1722 字 [94/09/10 15:00]

詩に学ぶ no36


  > すると、窓の下に並列している
  膨らんだ瓦斯タンクがつぎつぎに割れ、轟き
  大阪の船町 木津川沿岸の
  誰もいない重工業地帯は
  たちまち、大音響の煙の上に
  吹つとぶのだ。

                 (長谷川龍生「モダンタイムス」抜粋)
工場で機械のナットを締め付けるだけの仕事をしている労働者。チャップ
リンの「モダンタイムス」のようになんでもかんでも締め付けるはずみが止
まらない。それが、あるときコンビナートの大電機炉によじ登って行き、数
百個のナットを逆にゆるめていくと炉の一角から火の柱が十文字に裂け走り 瓦斯タンクに次々に引火して行きコンビナートの町は火の海となる。 労働者は大きな力を持つ。来るべき革命の担い手である。いや、そうであ
る「はずであった」。しかしなにがどうなったのかわからないままにベルリ
ンの壁は崩壊し、ソ連はロシアに変わり、地上から社会主義圏が消滅しつつ
ある。
 はっつあん「するってえとおらたち労働者はどうってことになるんでぇ」
 くまさん 「ローンに追われ、リストラに追われ、年金は65からになる


2719


No.2719/ 登録者:海神 2035 字 [94/09/15 03:03]

詩に学ぶ no37


> かさなりあった花花のひだを押しわけ
  地の下から光が溢れる河が溢れる

                (大岡信「地下水のように」抜粋)

山奥の川の上流、水源のあたりで、地下水が地中からにじみ広がり溢れ出
る様の表現。「光が溢れる」は隠喩だろう。光が溢れるように水が溢れる。
「河が溢れる」は河の様に生き生きとその水が溢れている様を表している。
清水の流れが河に続いているという意味にも取れるが、それなら「河」とい
う字は選択しないだろう。隠喩は省略の効果を持つ。直喩的に言い替えるな
らば「地の下から水が溢れる。光が溢れるように、河が溢れるように」とい
うことになる。詩に使われる隠喩による省略は、詩の改行(それによる余白
の効果)という制約によって最大限に活かされ、表現とともに発展する。余
白の効果といえばこれに続く連の

 > 道
   おまえの足をあたため
   空
   おまえの中にひろがる






 などはまさに余白を生かした表現である。本来余白は余韻とかいった、内
部的な「あふれ」なのだろうが、詩ならではの視覚的な利用のされ方がある。
「道」のあとの空白は想像を埋める余白を用意してくれ、「空」のあとの空
白は「ひろがる」べき自分と空との空間を視覚的に感じさせる。ついでに次
の連をの

> 風に咲く腕をひろげよ
  夢みよう 果実が花を持つ朝を

感覚的には明確に捉えられるのに、よく考えると分かりにくい(^_^;)
「風に咲く」というのは直喩にすると「風に咲く花びらのように」となる。
「果実が花を持つ朝」というのは、果実は花が散ったあとになるものだから
どうもピンとこないが、これも「やがて果樹が実をつけるであろう、その新
しい生命のもとである花の開花が希望に溢れた出来事であるように」という
注釈をつけると納得する。

 戦後詩もこの辺になると暗喩による省略のきいた作品を行間の空白を頼り
に感覚的に読み進むなどということがそう簡単にはできなくなる。引用した
部分をもう一度読み返してみていただくと分かるが、語句として難解なもの
は何もないにもかかわらず、である。この先に進むためには、詩の分かり方
に関する学習と、読む量をこなし訓練することが必要かもしれない。










2747


No.2747/ 登録者:海神 632 字 [94/09/23 17:32]

詩・習作 no1

  
  空白は行の終わり
  淡いすき間に
  見えかくれする
  夢の中の
  花びらたちの
  舞っている
  風のあかし

  夢の 
  底にある 
  言葉のように
  「わたし」の断片が 
  散っていく
  秋の日の 
  虚構の広がり

  空白は行のはじまり
  ほのかなすき間の
  裏側に
  誰にも見れない 





  流れの 
  魚たちの
  ひそやかな 
  波のたゆたい

  ことばの 
  底に沈む 
  眠りのように
  ものがりはじめる
  嘘のかずかず

  秋の日の 
  虚構の岸辺
  ことばの底の 
  扉開いて
  眠りの底の
  ものがたり記せ

                               


2762


No.2762/ 登録者:海神 1094 字 [94/09/27 21:42]

詩に学ぶ no38


> もう流れ出すこともなかったので、
  血は空に
  他人のようにめぐっている。
                (飯島耕一「他人の空」抜粋)

昭和27年、22才のとき、焼跡闇市といわれた戦後の風景のなかで青春
をおくった詩人が、平和が戻った夕焼けの空を表した詩で、28年にいまの
ような形に改め発表された。
 若い頃この詩をはじめて目にした私は、たいへん難解で抽象的な詩に感じ
たものだった。それはたぶん、鳥が「途方に暮れているように見えた」とか、
空が「石を食ったように頭をかかえている」とか血が空に「他人のようにめ
ぐっている」といった表現を感覚的に受容する能力がなかったためではない
かと思える。いまは何故これがそれほど難解に感じられないのかというと、
決して自分に受容能力がついたなどといった問題ではなく(^_^;)、たぶんそ
れはその後の世界がかかえるラングの膨らみがすでに容易にこの詩のレベル
を包摂したからだと考える。その後のラングの膨らみは、この詩をいまや誰
もが話しことばで語れるほどに膨張している。











No.2763/ 登録者:海神 1199 字 [94/09/27 21:43]

詩に学ぶ no39


> もしかすると
  森は自身を一つの全体だと
  思っているかもしれない
  この僕は
  もしかすると一つの全体ではないかもしれないように
  森は終日むずがゆそうに揺れている

                (川崎洋「森」抜粋)

森という存在を擬人法を用いて語っている。作者は森の全体像を把握する
位置にいる。しかし「この僕は」というのは一体なんだろう。「森は自身を
・・・と思っているだろうが、しかし、僕は・・・と感じる」という表現で
あるならば、「・・・と感じる」が省略されていると受け取れる。だが、そ
れならば「この僕が」を接続詞か空白によって省略することも可能であった
はずだ。
 しかし何度か読みなおしてみると、語り手でもないこの「僕」は作者の分
身として登場人物のような機能を担っている。「この僕は」が欠落してしま
ったら、この詩はこのあとの「語り」口調を失ってしまうのだ。
 ここに「語り手」の問題が出現する。ものがたりの語り手はいわば「もの
がたる」つまり虚構をささえるのであるが、詩の語り手は詩人のいる「場所」





をラングの世界に対し移動させる。詩人は語り手を介して位置をズラす。そ
のことによって意味のズレを担い、ラングの壁を破ることを可能にするのだ。
 
                              





No.2764/ 登録者:海神 1497 字 [94/09/27 21:55]

詩に学ぶ no40


  > どっから流れてきたのか一匹の犬の死骸
    白ちゃけた棒のように突出ている足の骨
    それが 水の中で  歩きたいと云うように動いている
    波にもまれている
    しかし あれは
    骨ばかりになるための漂流なのだ

                  (金井直「河のふちで」抜粋)

  見せかけの美しさだけが美なのではない。より遠い対象に迫ろうとする強
 い意識性の結晶が美なのではないだろうか。生命を見据える深い洞察が内面
 の遠い彼方からおのれを中点とする外面の彼方の対象へ迫る、その距離が美
 を形成するのだと思う。
  河を流れる一匹の犬の死骸など目を背けたくなるものだが、足の骨にまで
 目をやり、それが歩きたいというように動くのを見る。そしてしかもその先
 にあるのが歩くどころか骨ばかりになる、そこまで見えてしまっている。
  もちろん、これは現実の経験ではなく仮構である。しかも現実に川に流れ
 る犬を見て、そこから作者の感慨を抽出した仮構でなく、作者の中にある何
 ものかを表現するために作者がいわば「でっち上げた」仮構である。





  こういった仮構性というものは、当然ながら、「喩」と対応できる。喩事
 態も、非常に現実的な根を持つものから、超現実的なそれへと重層的なレベ
 ルを形成していると思われるからだ。それらの中で、詩表現独自のものを発
 展史的に抽出できればおもしろいものができそうだ。もっとも「喩」を意味
 から遠ざかる方向に押し進めて行って、ますます分かりにくいものにしてし
 まっているのが「現代詩」だということらしい。

                              





No.2765/ 登録者:海神 432 字 [94/09/27 21:58]

詩に学ぶ no41


  > いつものことだが
    電車は満員だった

                  (吉野弘「夕焼け」抜粋)

  わかりにくい現代詩の中で、分かりやすくて深い感動を呼ぶ不思議なすば
 らしい詩だから、部分的に抜粋するとストレスがたまって胃にポリープがで
 きるかもしれない。

                              


No.2786/ 登録者:海神 1483 字 [94/10/03 00:18]

詩に学ぶ no42


> ぼくがぼくの体温を感じる河が流れ
  その泡のひとつは楽器となり
  それを弾くことができる無数の指と
  夜のちいさな太陽が飛び交い
  ぼくのかたくなな口は逐にひらかず
  ぼくはぼくを恋する女になる

             (清岡卓行「セルロイドの矩形で見る夢」抜粋)  

  シュールリアリズムの手法は「自動記述」というもので無意識の中から出
 てくる言葉を流れに添って記述していくものである。テープレコーダーを使
 う方法もある(#1673の拙作「海鳴り」はこの方法を用いた…つもりである)
 このような詩においては「意味」は本人の無意識の中でしかつながらないの
 であるから、無意味な面白さ、偶然の発見の中に価値を見いだすしかないよ
 うだ。
  もっとも、次第に読者の側もメタファ(暗喩)に慣れてきて、メタファ表
 現を感覚的に受容できるようになり、意味のとれないメタファについていけ
 るようになってきている。あるいはある程度生活の中にメタファが浸透して
 きているのかもしれない。
  この詩の場合は「夢」を自動記述しているわけであるが夢の非現実性を媒





 介にしながら読み進めることが不可能なほどちぐはぐではない。いわば鏡の
 中の対象物に対して、詩人はこれをなんとか詩表現として収斂しようと努力
 しており、それがこの詩を際限ない逸脱から救っている。と同時に、そのこ
 とが、時間の推移とともにこの詩を読み易いものにしてくれている。そして
 シュールリアリズムの読者側からみた成果は、メタファを意味解析しないま
 まに許容できる段階まで受容レベルを押し進めてくれたことがあげられる。

                              





No.2787/ 登録者:海神 1037 字 [94/10/03 00:19]

詩に学ぶ no43


  > ふしぎないきもののようにうごく草ひとつはえぬ丘
    わかれては出あひはてしなくからみあいはなれゆく道の
    藻塩やくあまたの火のたちのぼるおもひ

                  (那珂太郎「てのひらの風景」抜粋)

  この読みにくさはなんだろう。リズムは感じるのになかなかイメージが頭
に入ってこない。焦燥感と戦いながら何度か読み返してみると、次第に読み
にくさの原因が分かってくる。
 「ふしぎないきもののようにうごく」のが「(草ひとつはえぬ)丘」で、
「わかれては出あひはてしなくからみあいはなれゆく」のが「道」で、「藻
塩やくあまたの火のたちのぼる」が「おもひ」を修飾している。
 修飾する側の語群と修飾される側の語の間の意味的断絶があまりにも深い
普通の使われ方でない。ほとんどラングの許容限界と思われる。しかし、こ
の詩の全文を読むと深い感動に浸されてしまう。意味の壁はリズムと格調に
包まれており、ひとつのピーク的表現が形成されているのを感じとることが
できる。全体としての詩的収斂性の高さがこの詩の質を補償している。

                             





No.2788/ 登録者:海神 1421 字 [94/10/03 00:21]

詩に学ぶ no44


> 何もかもかっ色の国でわたしが兄を見失って
  泣いていましたら 兄が肩に大きな鳥をかつ
  いで戻ってきて笑いました 空にはお月さま
  が七つも出ていたの 

(入沢康夫「わたしの行った国」抜粋)

語り手が登場人物であり、登場人物が複数であり、プロットらしきものが
ある、明らかに「物語的」である。一歩間違えれば詩でも物語でもないわけ
の分からないものになってしまう危ない所にあって、人の心の奥底に眠る幻
想への渇望を満たす、詩全体がひとつの幻想的暗喩としてある、戦後詩の仮
構性のピークに立つ作品ではないだろうか。
 この作品の成り立つところから我々の目指す「ものがたり」が望めるのか
どうかは今のところ不明である。現代という時代はまだ物語を許していない。
ベルリンの壁と同時にラングの壁が破壊してしまった現代にまだ物語はない
と見るべきであろう。
 しかし、女性たちは胎内に物語を持っているらしい。だから本当はこの「
現代詩に学ぶ」は女性による詩作品を学習したほうが実りが多かったかも知
れない。男たちが管理社会の中に完全に取り込まれ、喪失してしまっている
物語を、彼女達は大切にはぐくんで行ってるのではないか。
 伸びやかで奔放な女性詩群を横目に見ながらも、とにかく我々はやっと現
代詩の全域を見渡せるところまで来たのである。もう一歩、「吉岡実」とい
う最後の関門が残ってはいるのだけれど。

                             


2813


No.2813/ 登録者:海神 1763 字 [94/10/10 00:33]

詩に学ぶ no45


 > わたしが水死人であり
   ひとつの個の
   くずれてゆく時間の袋であるということを

                 (吉岡実「挽歌」抜粋) 

 「わたしが水死人であり」と語るのは誰か。水死人がしゃべれるわけがな
いので、これは詩人から分離した「語り手」であると分かる。この1行は虚
構のレベルを設定している。行分けによる空白は読者を詩の虚構の世界に誘
い込む役割を担っていると考えられる。
 「わたしが水死人であり」という1行は、次のような省略を担っている。
「水死人が・・・であるように、わたしは・・・である」つまり、これは暗
喩である。そしてこれに続く喩をその構造の中に内包している。「くずれて
ゆく時間の袋」は暗喩で、「(ひとつの個が)時間とともにくずれていく世
界」。つまり、水死人の保有する世界が、時間とともに崩れさっていく世界
であるように、わたし自身の固有の世界が時とともに崩れさっていくのを、
という意味である。
 このように現代詩は「喩」を意味から遠ざける方向で進化してきた。「喩」
は詩の中で「省略」「意味の置換え」「像の形成」などの機能を持つが、通
俗なリズムを拒絶し、意味の連続に飽き足りなくなった詩人たちによって、





次第に重層化され、詩が「分かりにくいもの」になって行く。そして最後に
は、言葉のあとに続くものが、予想できる言葉であることさえ拒絶される。
意味の連続性の拒絶である。
 意味から遠ざかることが価値であるかのように現代詩は突き進んできた。
これ以上すすむと意味のとれない世界へ行ってしまう。つまり、もうこれ以
上対象との距離を形作ることのできないところへ行ってしまったのである。
ラングの壁は破壊された。もはや新しいラングの共同規範が形成されるのを
待つしかないのか。だが、詩表現の戦いは続いている。
 だから、新しいラングの形成の方向を展望する前に、2・3のその後の世
代の戦いぶりを見てみよう。

                             


2836


No.2836/ 登録者:海神 1264 字 [94/10/16 23:54]

詩に学ぶ no46


> おれは署名した
夢……と
ペンで額に彫りこむように
あとは純白、透明
あとは純白
完璧な自由
ああ
下北沢裂くべし、下北沢不吉、日常久しく恐怖が芽生え
   る、なぜ下北沢、なぜ

                (吉増剛造「黄金詩編」抜粋)

闇の中から言葉がすっと立ち上がりまた消え去っていくこのリズム感。七
十年代初頭に彗星のように現れ、その天才的きらめきで文学青年達を劣等感
と絶望の縁にたたき込んだ詩集「黄金詩編」は、いまも輝きを失っていない。
声を出して読む詩。読んでいるうちに声を出しながら読んでいるのに気づく。
この詩人のリズム感は車を運転するときの感覚だと聞いて、なるほどなと
感心するとともに、なにか重大な秘密が分かってしまったかのように、がっ
かりしたことがある。(この詩人は家の中にいるとかえって危ないので、車
で表に出かけるのだそうだ。)





 詩を、作品とは切り離してこうして詩人そのものとからめて理解するのは
それなりに楽しいものだが、それは詩を深く理解することとは別のことだ。
ともあれ、意味から遠ざかっていく難解な現代詩のなかで、リズムと屹立す
る言語群で織りなすイメージの宝庫「黄金詩編」が与えたひとつの方向性は
後続する世代によっていまも様々な成果として引き継がれていると言えそう
だ。

                              


2874


No.2874/ 登録者:海神 3016 字 [94/10/24 00:13]

詩に学ぶ no47


  > 火照る土地に生えそろうハガネの林で
    傷ひらく正午ふかくわたしは
    失楽にひえた薄い口をしめ
    熟れきった泥土にもぐる白蛇ににる
                      デスマスク
                  (清水昶「死顔」抜粋)

  この詩は、ハガネ−傷−失楽−白蛇とつながる連想の連鎖でなりたってい
 る。連想の語句のつながりに論理的な意味を見出すことは難しいがシュール
 リアリズムとは違ったかたちで、我々の存在の底に響くものが隠されている。
 その秘密を解くことは多分表現の下意識といった領域に我々を誘うのであろ
 うと想定される。私はそれを「喩の根」との関連で解明したいと考えていた。
 「喩の根」というのは、個々の詩人には喩に用いる言語に特有の「持ってき
 方」があり、花鳥風月を用いるもの、西洋の文明、農耕慣習、大衆運動等々
 それぞれ個性的である。喩は、名詞的喩、動詞的喩など品詞的分化も見られ
 るが、表現としては距離の深化を補償する過程で重層化し抽象化し、虚構を
 取り入れ、意味から遠ざかる方向で高度化して行っている。長編詩そのもの
 が物語性を包摂し詩全体がコノテーション化を志向するものさえあらわれて
 来ている。(例 稲川方人「2000光年のコノテーション」)






  そういった個人レベルでの「喩の根」の問題と、ラングレベルで解明され
 るべき「表現の下意識」の接点をどこに求めるか。
  
  > にくしみがきつすぎる夜は
    ハガネのように肉身を削った

(清水昶「我が荒地」抜粋)

  これは前出の「死顔」のある詩集「少年」に先行する詩集「朝の道」にあ
 る表現で、「ハガネ−傷」の連鎖はこれで明快に解かれる。しかし「失楽−
 白蛇」と向かう連鎖は、その時代の文化を受容する<世界>と、その中から
 どういったイメージを自分の文学として選択していくかという個人の関わり
の問題としてしかとらえ得ないだろう。しかし一般的にこれが「連鎖」とし
て捉え得ることで、ある感情、あるイメージを創出するとしたら、そこには
それぞれの表現が個々人に共通する心的表現的土台を持っているのであって、
表現の先端性とは、その時代の下意識の中に眠る言語群を掘り起こし繋ぐ作
業であると言えるのではないか。しかし、<現代>という時代、少なくとも
「詩」の世界においては、見てきたように「意味」から果てしなく遠ざかる
行程をたどりながら言語群は「爆発」しつつあるように見える。

  ともあれ、現代という時代において、ラングの大きな球は破砕されたが、





 その中での抽象化の過程は押し進められている。風船は爆破されたが気体の
 分子は膨張運動を維持しており、その中で新しい風船づくりも進められてい
 る。物理的には爆発により球体は圧力を失うため一瞬にして蒸発し巨大なエ
 ネルギーの放散とともに瞬時無と化すところなのだろうが、物理現象が喩に
 しかならないところが文学のおもしろさでもある。次回、次々回はその膨張
 運動の最先端を垣間見て、その後の新ラング形成の展望へと向かおう。

  それにしても、吉増剛造や清水昶といえば、彼らを横目でみながら「生活」
 の暗い谷間に降りて行った「神田川・なごり雪世代」(^_^;)の小生としては、
 こうしてまた彼らの作品に出会える機会を得たことには特別の感があるな。
 そのことが幸なのか不幸なのかよくわからないけれど。
  次は一気に80年代へ行けるか?



2879


No.2879/ 登録者:海神 1199 字 [94/10/24 02:33]

詩に学ぶ no48


> 方法の午後、ひとは、視えるものを視ることはできない。

                  (荒川洋治「キルギス錐情」抜粋)

  こういう表現は、ぜひコレクタに入れておかなくてはならない。これはこ
 のフレーズだけでいろいろな思念やイメージを喚起させられる。しかし、「
 詩」の中での役割は次第に解かれる。

  > 南バルカンのしわぶかい街の場末で、くもった石窓のお
    んなの首に手をふると、おんなは冷たくよろいどをおろ
    す、わたしは地図の外にこぼれる。

                  (荒川洋治「ソフィア補填」抜粋)

  この詩人は異境の森や街を訪れてきこりに倒される樹や街の女を描写し
 ているとみせかけて、実は机上で地図を見ているにすぎないという「距離」
 の手のうちを垣間見せる。限界的ズーム効果。しかも

  > 過度の叙事を空冷し、絹のさし木を嗤うもの、諸島。






                  (荒川洋治「諸島論」抜粋)

  高度な喩の連続。圧倒されることばかりで八十年代の詩を語ることの難
 しを自覚する。
  次回は「2000光年のコノテーション」(稲川方人)の謎解きに挑戦
 する。果たしてどこまで挑めるか。

                                    


2901


No.2901/ 登録者:海神 1074 字 [94/10/29 19:36]

詩に学ぶ no49-1


  > やわらかな種の闘争期間
    詩はさまよう
    だが反乱の詩は近代の悲しみをこころえている
    多摩川の草むらが燃える
    この夜、二灯の光が円盤の帰路を告げた
    (T−iii)
 
          (稲川方人「2000光年のコノテーション」抜粋)

  この詩を分析するためにパソコンで読めるように転記したところ約2万バ
 イトのファイルとなった。余白を含めると1000行近くになる。3章48
 連からなる、この詩は、物語そのものが詩のメタファであるような、現代詩
 の先端に位置する壮大な詩編である。だが、ふと「物語」と言ってしまって
 ドキリとさせられるものを感じる。ここには詩の断片のつながりを保証する
 ような何ものもない。各々が想像力のスクリーンに映された詩的情念の断片
 にすぎないかもしれず、これを「物語」とみようとするとき、我々はとてつ
 もなく無謀な謎解きに挑んでいるのかも知れない。ここまで私たちは散々「
 喩によって意味から遠ざかっていく」現代詩の難解性に悩まされてきた。し
 かしこれまでのいわば応用問題に接することになるここでは、ゲームを楽し
 むようにこの詩編と遊んでみたいと思うのである。











No.2902/ 登録者:海神 888 字 [94/10/29 19:38]

詩に学ぶ no49-2


  データ1

  (登場人物) (アイテム)    (行動)

  君       詩的闘争心     主人公 語り手が語りかける相手
                   例「詩学の円卓をゆすれば君の闘い
                   はさびしくはじまる」
  
  父       手紙、バイク    1950年代、アラバマからケー
                   プタウンへ手紙を出すが30年を経
                   て「君」のもとへ届く
  
  僕       死んだコオロギ・イナゴ  2000光年の彼方の惑星に住ん
                   でいて、円盤で地球に遊びに来ては
                   死んだ虫たちを持ち帰る。
                    
  リチャード・パーキンズ ヘブンの石     30年代、50年代、80年代を
                   さまよい歩く。                     





No.2903/ 登録者:海神 1918 字 [94/10/29 19:42]

詩に学ぶ no49-3


  データ2 (頻出語彙一覧)

 87回 君
 46回 僕
 42回 死
 24回 光 詩
 20回 青空
19回 地上
 17回 光年
 16回 行
 14回 魂
 13回 人 父
 12回 傷 生
 11回 二 眠 天国
 10回 見 手 書 水
 9回 闘争 文字
  8回 子供 詩学 人間 内部
  7回 今日 東京 理性 惑星
 6回 永遠 死者 時代 地獄 年代
 5回 円盤 近代 手紙 真実 彼方 路上  小帆船





  

  実際に本を読みながら頻出語句を探すなんてことは大変なことだ。それが
 パソコンだとあっという間に出来てしまう。しかし、例えば「詩」という言
 葉は、実際にこの本で探すと23個しか見つからない。どうしてこういう違
 いが出てきてしまうのかはよく分からないが、「詩句」という言葉が1つだ
 け出て来るのでパソコンは「詩」「句」と別の語句と判断したのだろうか。
 ソフトの都合も多少は分からないとうっかりするかもしれない。
  10回に満たない1字だけのものは省略した。が、「雨」という字が7回
 も出てきている。読んでいるときにはほとんど気づかなかったが「雨の東京」
 が3回出てきている。こういうふうにデータを出してみると、読んでいる時
 には気づかなかったいろんな事実に出くわす。

  「光」が24回出てきている。「人称」以外の頻出語句はテクストの中で
 重要な役割を持つ。

  「青空」が20回も出てきているので実は明るい詩かと思えば、ほとんど
 が「傷ついた青空」「病気の青空」「狂っている青空」である。

  「近代」という語句を作者がどうとらえているか、がこの詩を解くひとつ
 のカギであるのだが、コンテクストなしにそれを言い切るのは困難であるよ





うに見える。

  「小帆船(ジャンク)」は野菜のような大きな都市(東京?)に流れ着く、
 時代を過った亡命の船である。作者はそれを自身の内部にうがたれた半月型
 の穴で息を殺して見つめている。作者は時代をさまよえる「ポラロイドに映
 らない」R・パーキンズや、幼少時の自身のメタファである惑星の少年をこ
 の穴から遠く望んでいるのである。だがスクリーンに映されたこれらの断片
 をつなぐ鍵は容易に見つからない。





No.2905/ 登録者:海神 1433 字 [94/10/29 19:45]

詩に学ぶ no49-4


> 僕ノ勇敢ナ父ニヨッテ
僕ノ空ガ傷ツケラレタボクノ空ガ血ヲ吐イタ
僕ハ恐クナイ ボクハ少シモ恐クナイ
死ンダ天使、アツメテクルカラ
                     (T−viii)

 普通にこの詩を読んだのではとてもその鍵は手に入らないように思える。
断片をひとつにまとめるどんなヒントも、容易には見つけることが出来ない。
この「父」と「僕」、そして「君」、それからさまよえる「リチャード・パ
ーキンズ」をつなぐ鍵は見つからない。「詩だから、断片性に価値があるん
だろう」とうそぶいてみても、しかし、どこか寒々しい。

 「父」になにが起きたか。それが重要な部分だということは、この詩を「
物語」と見る立場からは当然想定できる。しかし・・・

そこで苦し紛れにさっきの頻出語句一覧をつらつらと眺めてみる。

 そうだ、「父」と人称以外の頻出語句の交差点にヒントが見えてこないだ
ろうか。なかなか、大胆な発想である。「父」そして「光」と「青空」の交
差するところにこの詩を解くキーが隠されているかも・・・






 エディタを使って調べると、それは詩編の1箇所に見つかった。

  > サラトガスプリングスの光のポーチに
倒れて、君の若い父は
青空に、
理性の夢を見る
                        (V−ix)

これが、「物語」としてのこの詩の謎を解くキー・センテンスである。

「傷ついた青空」とは、「近代」という「理性の光」を失った空だったの
である。

                            


2932


No.2932/ 登録者:海神 2154 字 [94/11/03 03:18]

詩に学ぶ 最終回 パソコン通信と詩 (1)


新しいラング形成の方向性を探ろうと言っても、あらわに見えていないもの
を取り上げようというのだから、雲をつかむような話だ。
これまで見てきたように、この世界では表現の突端性を担う部分は「意味」
性をどこまで離脱するかでその価値を先鋭化させて行っているかのようだ。
ラングは「意味」を失ったときその機能を喪失する。だから、それはこれま
での言語環境の中ではもうこれ以上膨らむことができないところに来ている。
そうすると、これまでの言語環境を培ってきたものと、その変化、といった
ところに視点を向けなければ新しい方向性は見出せないだろう。
 しかしどこに、そんな「新しい」環境があるのだろう。
言語にとって新しい世界とは、どんな世界?それを見つけるために我々はま
ず「未来」に目を向けよう。

 いま、産業は20年後の「未来」に向かっている。世界の産業は2015年
という年に向かって怒涛のように奔流しているのだ。というのは、アメリカ、
日本はいま、それぞれ2015年に国内を網羅する光ファイバーケーブルを敷
設しようとしている。そしてこれら「情報ハイウェー」を利用した「マルチメ
ディア」産業を拡大させようとしている。というより、このマルチメディア導
入戦争に負けることはその国の産業にとって決定的なダメージとなるという読
みを持っている。






 情報ハイウェーが実現すると、何がどうなるのか。具体的には画像・音声デ
ータの送受信の時間的短縮・量的拡大が図られる。テレビで見ているような動
く画像が情報ハイウェーを通してパソコンで実現可能となる。
 詩の読者にとっては、読みたい詩をビデオのような画像データや音声データ
とともにパソコンから取り込み情景を味わうことができるし詩の背景に選んだ
音楽を聞き、またいろんなツールによる分析を行い、自分自身の詩として再構
築させることができる。
 そういった環境の中で「言葉」が培われるようになる。

 こう見れば、「新しいラング形成の場」とは、いまで言うならば、何よりも
我々が日々親しんでいる「パソコン通信」の世界だということでないだろうか。
しかし、もちろん「表現形成」の場としてのそれは「パソコン通信」を既成の
ラングで語ることを意味しない。新しい環境が既存の文化の中で膨らむことは
そう簡単ではない。壮烈な執克と異化の嵐の中でそれは芽吹きふくらむ。「パ
ソコン通信を文学で扱う困難さ」とは、じつはその辺に根があるのである。幸
いにも我々は、「表現」として扱いうる「パソコン通信」を対象とした文学を、
ようやく手にすることができた。





No.2933/ 登録者:海神 1282 字 [94/11/03 03:19]

詩に学ぶ 最終回 パソコン通信と詩 (2)


> ああ、ここでしたか、ずいぶんと探しました。
 シーケンシャルの中点が入り口だったのですね。
 気がつきませんで、これはどうも、さっそくレスをさせてもらいます。
 あちらのシーケンシャルはご覧になったようで、
 しかし、たくさんのシーケンシャルがあるものですね。
シーケンシャルの中点をとれば、2つの方向を可能としているようです
こよりとの銀系は体積を創ろうとしているのでしょうか
空間として圧倒的な広がりをみせています
一本と一つとを巻きとって ファイリングしているうちに
ははは、そうですか、いい話にさらされたのですね
ご指摘のシーケンシャルの段階についてなのですが
この部分をサンプリングするのですね なるほど 音のような振動をしています
CRTから固定された時報の断片を子細に取り出すことができましたか
ここからの仮説です。
お気づきになっていたのですね、そうでしたか、
私もこれからいこうと、ちょうど、おもっていたところなんですよ
さて、螺旋というシーケンシャルの体積の話でしたか容積の話でしたか
ときほぐしているわけですね。
ええ、話が長くなってしまって
あ、これはどうも、どうも、ここからはほんとうによく見えるようです






           (吉っつあん「ここで話していたのですか」全文)
             (自費出版詩集「パスカルへの序章」収録)
           (著作者より全文掲載の許可をいただいております)






No.2934/ 登録者:海神 1293 字 [94/11/03 03:21]

詩に学ぶ 最終回 パソコン通信と詩 (3) 完


 「吉っつあん」は、もとプログラマ−、今は禅宗関係の僧侶である。そして、
相当年期の入った詩人でもあるのだ。ある意味では「パソコン通信と文学」と
いうテ−マを追求するのにうってつけの人材でもある。こういうふうにパソコ
ン通信を表現した作品を我々はまだ見ていない。

ここに出てきたコンピュ−タ環境の側からの言葉は、「異化」によって完全
に詩的機能性を保有している。本来指示表出としてしか機能し得ない「シ−ケ
ンシャル」「中点」といった言葉が自己表出的機能をになって活き活きと登場
している。

語られていることは、パソコン通信のメ−ルで、螺旋に関する哲学論争をし
ている会議室の情報を教えてもらっている場面なのだが、会話体の各行がモノ
ロ−グの内向機能によってすばらしく膨らみのある詩的構成を成功させている。
この詩が21世紀に向かって花開く新しい文学表現の出発点として画期的なも
のであることは疑う余地もないであろう。

我々はこの詩人に、ラングの領域にある言葉も詩の構造に組み込むことで異
化された働きを保有させることができることを学んだ。そしてこのあたりに新
しい表現形成の突破口がありそうだと教えられる。






来るべき時代に向けてラングは新しい世界をつくろうと次々に創出されてい
る。その息吹を受けて、詩は様々なコトバを新しい意味を持った、エネルギー
に満ち溢れた、活力のあるものにしようと、大地の中で芽生えの時を待ってい
る。

                              

No.1083/ 登録者:海神 1042 字 [94/11/03 03:23]

「詩に学ぶ」完了しました


「現代詩が分かるようになりたい」と、拙い足どりを一歩一歩進めて来た
わけですが、思ったより遠くまで来れたと大変満足しております。分かりか
けて来たことも多いのですが、その何百倍も分からなくなったことのほうが
多いので「やぶ蛇だったかなあ」と苦笑いしながらも、何よりも自分の「成
長」を確信できることが嬉しい気持ちです。「継続は力」で、このまま詩の
構造や物語の世界に突入して行きたい気もありますが、「到達点」があるの
もすばらしいことだと今は思っております。読者を想定して書きはしたもの
の、読者を期待はしてませんでしたが、ふと迷い込んだチャットルームや他
ネットなどでひと声でも「読んでるよ」と言われると非常に嬉しく、励みに
なりました。心から感謝いたします。


 最後に、「詩に学ぶ」の構想の段階から完結に至るまでご指導ご助言、批
評をいただいたダンボールネット(03-3724-0693)のSYSOPに感謝と敬意
を表します。

海神

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