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3.現代詩を解く

 
1  2002/07/09(Tue) 00:46  現代詩を解く(序)   
  「現代詩」というのは、戦後の「荒地」グループから
はじまり、吉岡実で頂点に達した詩の一群である。
 いまネットによってこれまでの詩表現を越えるという
 テーマを考えるとき、その方向性をさぐる意味からも、
 「現代詩」の表現のレベルを知ることは必要である。
  しかし、われわれは、あくまで現代詩の表現としての
 水平を見極めたいのであって、学術研究をする時間の
 余裕をもっているわけではない。もっとも労力を要せず
 現代詩の表現としての頂点に達するために、ここでは
 下記の書籍のみを対象としたい(一部他の個人詩集等も
 対象にしなければならないかもしれません)
  中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集

2 2002/07/14(Sun) 19:30         現代詩を解く(序の2)   
「一般詩と現代詩」と仮に区別して呼び分けるとして
後者の中にあって一般詩との要に位置づけられる詩人は大岡信
である。逆に前者の中にあって現代詩への要の位置にあるの
が高見順である。

> どの辺からが天であるか
> 鳶の飛んでいるところは天であるか
> 人の眼から隠れて
> ここに
> 静かに熟れてゆく果実がある
> おお その果実の周囲はすでに天に属している

    (高見順「天」中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)

 この詩と、現代詩表現のピークに立つ吉岡実の「静物」を
比較してみる

> そのまわりを
> めぐる豊かな腐乱の時間。
> いま死者の歯のまえで
> 石のように発しない
> それらのくだものの類は
> いよいよ重みを加える
> 深い器のなかで
> この夜の仮象の裡で
> ときに
> 大きくかたむく

引用(中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)

 皿の上の静物である果実を語るこの2つの詩の違いは
何なのだろうか。それを語る言葉を我々は持っている
だろうか。
 高見順の詩のほうはあくまで「天」という抽象的なものを
果実に寄せて語っている。
 吉岡実の果実のほうが具体的なものを語っているのだ。
 にもかかわらず「静物」の方が「天」よりはるかに抽象的
に感じられるのは何故なのか。

 この疑問を一般化し、その謎を解き明かせば、難解な
現代詩がより一層の深みや広がりをもって我々の前に登場
することになるだろう。ハードルに届かなければハードル
を越えることはできない。そのハードルに向かって、いま
助走を開始するのだ。

3   2002/07/22(Mon) 02:13         「鳥」の変容   

 高見順「天」の鳶と伊藤桂一「鳶の音楽」の鳶は、
どちらもそれ自体自然界の中で悠々と飛んでいる鳶そのものなのだが、
どちらの鳶も少し正体を変えつつある。
 高見順「天」の鳶は熟れていく果実のまわりにある「天」を包摂
して飛んでおり、伊藤桂一「鳶の音楽」の鳶は、「ぼく」が「その
円周にしか住めない」と感じている鳶である。少し抽象性を含有し
つつある、というところか。
 嵯峨信之「春雨」では鳥はもっと姿を変える。

> ぼくが消えてしまうところが
> この地上のどこかにある
> 死は時の小さな爆発にあって
> ふいに小鳥のようにそこに落ちてくるだろう

(嵯峨信之「春雨」中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)

 宿命としてひとを突然襲う死の直喩として鳥は登場している。

 ここまでが一般詩であり、ここからが現代詩である。

> 空から小鳥が墜ちてくる
> 誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために
> 野はある

(田村隆一「幻を見る人」中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)

 ここで鳥は初めて暗喩的抽象性を持って登場する。

 「誰もいない所で射殺された一羽の小鳥」がイメージを結びうる
社会的条件と、鳥に抽象性を与えていった詩表現がマッチしたとこ
ろで初めてこの表現は可能となった。

 「幻を見る人」のどこがこうした現代詩表現を支えたかというと、
それは「構造詩」表現である。「小鳥」と「窓」(「叫び」)といった
2つの要素を交互に並べ、

> 小鳥が墜ちてくるからには高さがあるわけだ 閉ざされたものがあるわけだ
> 叫びが聴こえてくるからには

と2要素を2行に分けてしまわないで1行に混在させて構造的な
ハードルを設定することにより、平面的な詩表現で乗り越えること
のできない抽象性のステップアップを可能にした。
 詩人が「主体」としては乗り越えられない表現の壁を、「構造」
を介して乗り越えたところから「現代詩」は始まった。
「構造」を介して詩表現を乗り越えるというのは「かたち」だけの
問題なのではない。このこと解明は「易しい読みやすい現代詩は可能か」
といったニーズへの突破口ともなるだろう。

4  2002/07/28(Sun) 15:33         詩の構造化   

構造化を通して詩が現代詩となる過程は、読者にとっては、それまでの詩が平面的に読
みながら意味をそのまま摂取できるのと違い、慣れるまではいったん構造を読みとって
から再読しないと意味がとれない、という「読み難さ」を伴う。
 しかしながら構造の流れと意味の流れが合致して摂取できたときには大きな知的感動
を享受できる。
 初期の現代詩を取り上げて、この点をちょっと研究してみよう。
 中桐雅夫「新年前夜のための詩」から引用させていただく

> 最後の夜
> 最初の日に向かう暗い時間
> しずかに降る雪とともに
> とおくの獣たちとともに在る夜
> さだかならぬもの
> 冷たくまたあわれなるすべてのもののなかに
> 形づくられてゆくこの夜

(中桐雅夫「新年前夜のための詩」中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)
 
 この詩は「最後の夜」と「最初の日」の二項対立構造から成り立っている。
 どの部分が「最後の夜」について表現されているか、また「最初の日」についての表
現なのかを判断しながら読み進めると、この詩のすさまじいダイナミズムをうまく享受
できる。

 次は三好豊一郎「囚人」を取り上げさせていただく。

> 真夜中 眼ざめると誰もゐない――
> 犬は驚いて吠えはじめる、不意に
> すべての睡眠の高さに跳びあがろうと
> すベての耳はベッドの中にある
> ベッドは雲の中にある

(三好豊一郎「囚人」中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)

「睡眠の高さに跳びあがる」がわかりにくい。
 が、「睡眠の深さ」という言葉をもってくると、たちどころにこの詩が摂取できる。
 睡眠と目覚めを地と天の位置構造として表現している。
 詩の構造化は「語り」としてみれば、読者の目を場面に釘付けにする効果を持ってい
る。だから、この詩の最後の1行( vieの犬)が生きる。

5   2002/07/28(Sun) 15:35   キーワード  
 
 現代詩を代表する(?)題材は「小鳥」と「死」である。
 「小鳥」は「鳥」「鳶」と姿を変えることもあり
時には「犬」になったりもする。この2つのキーワードが出てくる作品を並べ読み進む
と、そのまま現代詩の表現の進化の過程を辿ることになる。

高見順からの流れをたどれば次のようになる。

「鳥」の変容

高見順  「天」(鳶)
     「汽車は二度と来ない」(ツバメ)
     「みつめる」(犬)

伊藤桂一 「鳶の音楽」(鳶)
嵯峨信之 「春雨」(小鳥)
会田綱雄 「鴨」(鴨)
鳥見迅彦 「けものみち」(けもの・黒い鳥)
田村隆一 「幻を見る人」(小鳥)
秋谷豊  「流血」(鳥・一羽の鳥)
中桐雅夫 「Birdie」
三好豊一郎「囚人」(犬)「夕映」(鳥)
黒田三郎 「もはやそれ以上」(少女)
飯島耕一 「他人の空」(鳥)
生野幸吉 「雪の素描」(鳥)
入沢康夫 「鴉」「わたしの行った国」(鳥)
吉岡実  「牧歌」(羽毛のない鳥やゴムの魚)

「死」の変容

高見順  「汽車は二度と来ない」
     「生と死の境には」
     「死の扉」
     「みつめる」
     「おれの期待」

大江満雄 「飢ゑ」
嵯峨信之 「野火」「死の唄」「春雨」
阪本越郎 「死んだ人  お前に」
田村隆一 「幻を見る人」
鳥見迅彦 「けものみち」
天野忠  「死の骨」
中桐雅夫 「新年前夜のための詩」「Birdie」
三好豊一郎「夢の水死人」
黒田三郎 「もはやそれ以上」
北村大郎 「雨」
大岡信  「樵湖にて」
川崎 洋 「早くしないと」
金井直  「河のふちで」


6   2002/08/11(Sun) 16:28         「もはやそれ以上」1.喩   

> 運命は
> 屋上から身を投げる少女のやうに
> 僕の頭上に
> 落ちてきたのである

「屋上から身を投げる少女のやうに」があまりに衝撃的な喩であるために
 「運命」が「身を投げる少女のように」「落ちてきた」と読める。

 そう読んでしまうのは、最初の節に

> 河に舞ひ落ちた一枚の木の葉のやうに

という喩が登場し、流れていく自分の運命と像的に重なるからである。

 しかし

> 屋上から身を投げる少女のやうに

 が運命が落ちてきたことの喩であるなら「少女」は喩としての役割を終えた瞬間この
詩から姿を消してしまうはずである。ところが次の連で

> もんどりうって
> 死にもしないで
> 一体たれが僕を起してくれたのか

少女は「もんどり打って」「死にもしないで」と、続く連では主体となって現れている。
つまり

> 運命は
> 屋上から身を投げる少女のやうに

は、「運命は屋上から身を投げる少女として」

> 僕の頭上に
> 落ちてきたのである

 と解釈すべきである

 現代詩を解くうえで「喩」は最大の難関である。たとえる言葉とたとえられる言葉の
間に越えることのできない距離が設定されていることがあり、隙間を埋める作業は読者
の能力気質に任されている(笑)
 喩の成り立つ条件としては、
 1.たとえる言葉とたとえられる言葉の間に社会的了解がある。
 2.喩が当該ジャンルの中で培われてきた喩表現の上に成り立っている。
 3.喩が表現の高まりの中で初めて誕生する。

 3.の場合にも社会性がまったく遮断された喩の発生は考えにくく、社会的無意識と
いった領域を設定できる。喩はやがて社会化されるため、難解な喩は必ず社会化するか
価値を失っていく

7   2002/08/18(Sun) 17:26          「もはやそれ以上」2.語り

 「物語」と「語り」はどう違うのか。「物語」はシークエンシャルな要素を本質とす
るが、「語り」は作品から抽出される「語り手」と「人物」の関係を本質とする。作者
も読者もディスクールのどこにも存在しない。

 最初の2連に書かれているのはかつての「僕」であり、3連の今の「僕」に繋がる。
ここで語られているのは「失うものとてなにもない」「僕」である。

> 否 そこには美しい空があった

 (高見順「生と死の境には」)

 一般詩の中には語りの曖昧さがあるが、それは作者と語り手の未分化の状態として現
れる。一般詩においては作品は作者の感情や恣意の表出として対自し、作者の意図を享
受するための読者が存在した。しかし創造的ディスクールは本質的に作者を排除するた
め、現代詩の作品の中からは作者も読者も完璧に撤退する。

> 運命は
> 屋上から身を投げる少女のやうに
> 僕の頭上に
> 落ちてきたのである

この詩が一般詩としても深い感銘を与えるのは「屋上から身を投げる少女のやうに」を
像的な喩として読んでも、この連以降を「物語」として読めば、一種の物語喩としてた
めらいなく読めるからである。
 しかしこの詩はあくまで現代詩であり、この詩の中には、作品の中の作者も作品の中
の読者も存在しない。語りと人物の位相は終始一貫している。

8   2002/08/25(Sun) 16:19         「もはやそれ以上」3.物語

 詩の物語は当然ながら人物が少なく単純なシーケンシャルが設定される。
 現代詩と一般詩とでは物語はどう変わっているのか。一般詩の中にも虚構的にも面白
いものは少なくないが、現代詩の場合には虚構性が高い作品がより多い。現代詩におい
ては詩表現自体に予測可能性を否定する傾向があり、それが物語としても展開の劇的性
格として現れる。虚構性を高める選択がなされている。

> 運命は
> 屋上から身を投げる少女のやうに
> 僕の頭上に
> 落ちてきたのである

ここで「語り手=登場人物」の流れは突然「新たな人物」の登場により転換する。この
「人物」は、これまで主人公として自分の過去や現在を語ってきた「僕」を一歩退かせ
舞台の中央に躍り出る。
 
 ジャンルの中で物語りの有り様は変化していく。言語表現としての変化と物語として
の変化は呼応しながら進展する。物語に進化を認められない文化はそれ自体、停滞した
文化であり失速した文化である

9   2002/09/01(Sun) 18:07       「もはやそれ以上」4.視線   
 
 それにしても、「運命は屋上から身を投げる少女のように」の連がどんなに劇的であ
っても、それだけでこの詩がすばらしいというわけではない。どんな物語も、最初の衝
撃に至るまでの緊張感がなければ読めたものではない。何かが起きる期待を、引っ張り
続けるものがあってこその山場なのである。

> もはやそれ以上何を失はうと
> 僕には失ふものとてはなかったのだ
> 河に舞ひ落ちた一枚の木の葉のやうに
> 流れてゆくばかりであった

「もはやそれ以上」の最初の連である。続く2連もそうであるが、最初の2行では語り
手と人物(主人公)は未分化である。続く2行では両者は明確に分離され、その距離は
時間の感覚を(読者に)持たらしている
 この語り手と人物の分離は、視線の構造化として現代詩表現に寄与している。3連で
現在の自分を表現しているのだが、当然「いま」の自分を表しているので、ここでは語
り手と人物の分離はない。
 視線の距離で時間を表現すること自体は文章表現の基本的レトリックであるが、そこ
に語り手と人物の分離をからませて、4連移行を劇的な効果に誘う手法はまさに「現代
詩」的といえる。時間とからんだ視線の分離がこの詩の前半の緊張を支えているのであ
る。
 ここではじめて「読者」が登場する。読者とは語り手と登場人物をまなざす視線のこ
とである。

10   2002/09/08(Sun) 19:30         北村太郎「雨」   

 現代詩に特有なファクターを探すときに見落とせないのがこの詩である。

> 何によって、
> 何のためにわれわれは管のごとき存在であるのか。
> 橋のしたのプロンドのながれ、
> すべてはながれ、
> われわれの腸に死はながれる。

(北村太郎「雨」中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)

 命の源を流す体内の管を、ものとしての管ととらえている。
 新たに見え始めたものに言葉を与える。これが詩というもんだ
よ、と言いたくなる。だけど、新たに見え始めたものに言葉を与
えるという行為は、何によって可能か?

11   2002/09/16(Mon) 00:34         谷川俊太郎「ソネット50」   

> 存在のもつ静寂は時に
> 無のもつそれにもましてかすかだ
> だが近づくと
> かれらのひそかな身ぶりがあらわになる

(谷川俊太郎「ソネット50」中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)


 なんというすごい表現なのだろう。ものを丁寧に見る。あくまで、徹底的に丁寧に見
つめる、そういった所作によってのみはじめて可能な表現だ。しかもそれは具体的なモ
ノであると共に抽象的なレベルのモノなのだ。暗闇の中でじっと見つめる詩人の目。何
もない静かな闇だ。何も聞こえない。だけどその闇を割ってひんやりとしたものが感じ
られる。闇よりも静かな主張。近づくと、薄ぼんやりとした光の中にそのものの形が姿
を現す。

 名付けられることでモノはモノになる。詩人は名付けられる以前の闇の中から丁寧に
慎重に彼らをたぐり寄せる。しかし彼はあくまで謙虚である。光の中にあって、名付け
られて、あたりまえのように在ること、その確かさについてはそれはそれで当然のよう
に知っている。しかし

> 人のそとに名づけられる何があるか

 文字で書くこと、安易に名前を付けてしまっていること、理解している知っていると
思いこんでいるもの。人のそとに名付けられるなにものもありはしない。ただ、ものが
あるだけだ。そのように、なにもないところの存在そのものと対峙し存在そのものを丁
寧に見つめること、それを詩人は

> 私は愚かに愛することが出来るだけだ

 と表現したのである。人のそとに名づけられる何があるか。何もありはしない。何も
ない世界を前にして詩人はただ見つめる。人のそとに名づけられる何があるか。愛があ
る。それは詩人だけが持っことのできる、愚かしい愛だ。

 現代詩はモノや言葉を先験的に信じたりはしない。対象を言葉以前の世界に返して、
よりよく見つめる、より深く見つめる。それはモノだけでなく表現そのもの、詩形式そ
のもの、ことばの在り様そのものにまで及ぶ。

12   2002/09/29(Sun) 16:18         安西均   
現代詩の詩人はモノをよく見る。暗闇の中の存在を見据える。そして言葉を所与のもの
として信じない。それは対象の認識として現れるだけでなく、主体の側の問題としても
捉えられる。

> 「それが俺と何の関りがあらう?紅の戦旗が」
> 貴族の青年は橘を噛み蒼白たる歌帖を展げた

(安西均「新古今集断想 藤原定家」中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)

 遙かな時代への隔世を引きつけ、「歌帖」「烏帽子」「直衣」など辞書でも引きたく
なるような古語を網羅しながら、なおかつこの詩が「新しい」と感じさせるのは何故か?
表現の新しさをもたらすのは時代でもなければ言葉でもない。より遠い対象に迫ろうと
する詩人の意気込みのようなものなのか?目の前の「存在」を見る目も遠い悠久の「存
在」を見る目も、同じように真摯で深い。それがたった2行で読者を「新しい表現」の
舞台に引き上げるのだ。

> 直衣の肩は小さな崖のごとく霜を滑らせた
> 王朝の夜天の隅で秤は徐にかしいでゐた

臨場感と距離。ひたすら情景を見続ける歌人と切迫した時代状況。

> 「否! 俺の目には花も紅葉も見えぬ」

 これまでの「花も紅葉もなかりけり」の歌がまったく新しい意味を持って蘇る。
 ひたすらよく見る、現代詩の対象への希求が、主体の側の問題として捉えられている。
> その目は煙らない
> その目は寂しい沖にとどく
> 遙かなる実存の小島へ
> その目は ずい! と接近する

 (安西均「実朝」中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)

 時代という時間を引きつけるズーム効果と距離のズーム効果がミックスされている。
 こういった表現に至ったのは、現代詩人の「ひたすらよく見る」対象への接近の現れ
である。ただズーム表現は主体の側に視点を移行してしまう宿命があり、そのときに「
作者」が見え隠れする。「見えすぎる」作者が出てしまうのである。

 ズーム表現の進化したかたちとして、中公文庫「日本の詩歌」にはないのだけれど
荒川洋治「キルギス錐情」がある。この詩の「わたし」の出かたは巧妙であり、うなら
せるものであり、納得できるものである。

13   2002/10/14(Mon) 15:07         安東次男「海戦」  
 
現代詩の詩人はよく見る。その目は未来をも透視する。

> 波で洗われた
> 歴史の断面の、
> ぱっくりあいた
> ばらいろの創ロ。

(安東次男「海戦」中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)

語り手は「歴史の断面」が見通せる位置にいる。その距離から見せるばらいろの傷口。
傷口の奥に骨はない。核兵器はあらゆる骨も溶かしてしまった。
 傷口の主は老鮫である。

> 鮫は、
> まるごとそれをのみくだす。

> 鮫は見る

> しかし鮫はかんがえているのだ、

> さみしがりやの鮫はおもう

作者は、非常に巧みに、人が鮫の目を借りて語るところから、その鮫がまた人の視線を
借りて語るところに読者を導いている。語りにおける人称レベルの転換が、なされてい
る。
 実は「物語論」はここから始まる。「物語」を人物とプロットのレベルで語るのは物
語職人に任せておけばいい話で、論としての物語は「語り」のレベルから始まらなけれ
ばならない。
 
 最後の7行。ここで「語り」が非常に巧く人称転換を結実している。その転換の巧み
さが、この部分を「語り」からはみ出させないで終わらせる天才的鋭意を可能にさせて
いる。語りの構造転換が、物語を破綻させないで、緊張感を保ったまま作品を高度に完
成させるということを覚えておこう。

14   2002/10/14(Mon) 16:28         安東次男「樹木開花」

> ぎつしりせばまった、壁に、色のわるいソーセージのように、女が挟まれていた。

(安東次男「樹木開花」中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)

なんという奇抜な出だしだろう。しかもこの短いセンテンスで一気に読者を物語の土台
に引き上げている。

 しかし、物語にとって大切なのは現実と舞台との距離の一貫性だ。

> 不思議なことは、ぼくらにはもう空は、この、上の「存在」ではなかったことであ
る。
> こわれた昼はたしかに、二つの斜面を、もつのであった。

この2ヶ所はイデオロギー的な意味合いを含んでいる。この詩自体が少なからずイデオ
ロギー的な作品だ。詩にとってイデオロギーとは結論の決まりきった物語のようなもの
だ。
 しかし、イデオロギーの衰退した時代にあらためて読み直すと、この2ヶ所は「物語
の中に顔を覗かせた作者」をまったく感じさせないで読むことができる。書かれた字句
通り
に読みすすめてもまったく差し支えがない。揺らぐことのない寓意の貫徹と読みとる方
が自然である。ただ、そうしても最後に、それでは「新しい樹木の開花」とは何だとい
う問題は残る。とはいえ、安東次男の詩は吉本隆明の詩よりも現代詩としておもしろい


15   2002/11/23(Sat) 17:19         大岡信「地下水のように

> かさなりあった花花のひだを押しわけ
  地の下から光が溢れる河が溢れる

                (大岡信「地下水のように」抜粋)

山奥の川の上流、水源のあたりで、地下水が地中からにじみ広がり溢れ出
る様の表現。「光が溢れる」は隠喩だろう。光が溢れるように水が溢れる。
「河が溢れる」は河の様に生き生きとその水が溢れている様を表している。
清水の流れが河に続いているという意味にも取れるが、それなら「河」とい
う字は選択しないだろう。隠喩は省略の効果を持つ。直喩的に言い替えるな
らば「地の下から水が溢れる。光が溢れるように、河が溢れるように」とい
うことになる。詩に使われる隠喩による省略は、詩の改行(それによる余白
の効果)という制約によって最大限に活かされ、表現とともに発展する。余
白の効果といえばこれに続く連の

 > 道
   おまえの足をあたため
   空
   おまえの中にひろがる

 などはまさに余白を生かした表現である。本来余白は余韻とかいった、内
部的な「あふれ」なのだろうが、詩ならではの視覚的な利用のされ方がある。
「道」のあとの空白は想像を埋める余白を用意してくれ、「空」のあとの空
白は「ひろがる」べき自分と空との空間を視覚的に感じさせる。ついでに次
の連の

> 風に咲く腕をひろげよ
  夢みよう 果実が花を持つ朝を

感覚的には明確に捉えられるのに、よく考えると分かりにくい(^_^;)
「風に咲く」というのは直喩にすると「風に咲く花びらのように」となる。
「果実が花を持つ朝」というのは、果実は花が散ったあとになるものだから
どうもピンとこないが、ひとつには出だしの「かさなりあった花花のひだを
 押しわけ」との季節的整合性と、「やがて果樹が実をつけるであろう、その
 新しい生命のもとである花の開花が希望に溢れた出来事であるように」と
 いう注釈をつけると納得する。

 現代詩もこの辺になると暗喩による省略のきいた作品を行間の空白を頼り
に感覚的に読み進むなどということがそう簡単にはできなくなる。引用した
部分をもう一度読み返してみていただくと分かるが、語句として難解なもの
は何もないにもかかわらず、である。

(ここまではパソコン通信時代の「ダンボールネット」に以前UPしたこの詩に関す
る感想である)

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 > かさなりあった花花のひだを押しわけ
 > 地の下から光が溢れ河が溢れる

 (大岡信「地下水のように」中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)


生き生きとした地下水が、きらきらと光りながら地上に溢れ出る様が端的
に表現されている。
 私はこの詩が「創世記」の影響を受けたものだと最近気が付いた。

> 神が「光あれよ」と言われると、光ができた

 (旧約聖書「創世記」岩波文庫 関根正雄訳)

 神はこの世界を造った。完全なる神がこの世界をつくったのに、何故この
世界には争いが絶えないのか。生まれたばかりの罪もない乳飲み子が殺
戮兵器の犠牲になって死んでいくようなことが繰り返されるのか。

 それはヒトが知恵の木の実を食べたからである。ヒトは「自由」と引き
替えに、その行為のすべての責めを全身に負うことになる。

 ともあれ、「創世記」の天地創造と人間創造はまたロマン創造の物語で
もある。

> ヤハウェ神が地と天を造られた日……地にはまだ一本の野の灌木もなく
、野の一草も 生えていなかった。・・・ただ地下水が地の下からわきあが
って、土地の全面を潤して いた。……この日ヤハウェ神は地の土くれから
人を造り、彼の鼻に生命の息を吹き込ま れた。そこで人は生きた者となっ
た。

  (同上)

 > 泥の中で若い手がのびをする
 > ぼくは土と握手する

 (大岡信「地下水のように」中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)

 「地下水のように」は新鮮な感覚のロマンであると同時に、非常に重厚な
現代詩的要素をいくつも持っている。

 > ぼくはからだをひらく
 > 樹脂の流れる森に向かって
 > おまえに向かって
 
 「樹脂の流れる森」は現代詩的な隠喩を完全に消化した表現。我々は、
ここまでは普通詩としても読めるが、ここからは現代詩の表現を下意識と
して持っていないと詩を読みすすめないという地点に達している。そうい
う意味で、我々は高見順を現代詩の手前に位置したように、大岡信の詩を
現代詩の中心に据えることができる。これ以降の現代詩は現代詩としての
表現を前提としていないと読み進むことが困難である。
 
 それは、現代詩はここからが面白い、ということでもある。


16   2002/12/30(Mon) 14:54         他人の空

> 鳥たちが帰って来た。

(飯島耕一 「他人の空」 中公文庫 日本の詩歌 27 現代詩集)

この詩は評価・解釈ともすでに定着しているので読みやすい。しかし、それがネックと
なって、なにか書こうとすると大変難しい作業になってしまう。最初に読んだときの難
解で抽象的な感じが自分の中でなかなか再現できない。

> 鳥たちが帰ってきた

 「鳥」たちに関して形容がない。これまでの「鳥」とはまったく違っている。

> それは途方に暮れているように見えた。

 「作者A」は場面の遙か彼方にいる。「語り手」は鳥のいる情景と空を読者に見せる
位置にいる。「途方に暮れているように」と感じた「作者B」はいわば「登場人物」の
位置にいる。こういった距離構造がこの作品の抽象性を支えている。詩の表現の流れの
中で、初めて「構造」の距離関係が既知のものとして与えられた詩である。


17   2003/01/05(Sun) 19:01         セルロイドの矩形で見る夢   

現代詩はわからない、と言われるようになったのはこの詩あたりからだろうか。それ
でもすでに今の表現の流れは、映像化に完全に慣れてきているので、この情景が目の前
で展開されても、さほど抵抗を感じなくなってきているだろう。詩の読者も、自動記述
とか夢判断とかを無視してこの詩を味わえるところに来ている。表現の社会化という現
象があって、ある時代にはとてつもなく難解な表現でも、一度それを飲み込んでしまう
と、受容できてしまい、日常化してしまう。いま読んでなおこの詩を難解と感じるなら
それはシュールリアリズムの手法に対して不慣れだからでなく、現代詩の表現のレベル
に達し得ていないからだと思われる。

> ぼくがぼくの体温を感じる河が流れ
> その泡のひとつは楽器となり
 
 (清岡卓行「セルロイドの矩形で見る夢」 中公文庫 日本の詩歌27 現代詩集)

この表現へ至るまでの現代詩のステップは例えば

> 何によって、
> 何のためにわれわれは管のごとき存在であるのか

 (北村太郎「雨」 中公文庫 日本の詩歌27 現代詩集)

 であると思われる。語り手が作者を肉体的に自己浸食して喩を形成していく表現の流
れができて、それが距離的に定着したものが「ぼくがぼくの体温を感じる河が流れ」で
ある。

> 君の裸体は火葬の扉に似ている

 作者の内部に喩の根を求めて語り手が浸食していく当然の帰結としてこのフレーズは
存在する。そうでないと

> ぼくは捉えられない自分にわななき
> 明日の見知らぬ歓笑の中で足が凍える

詩の最後の2行の「ぼく」が単に「作者」として読まれてしまう。これは当然にして「
登場人物」としての「ぼく」である。

 こう読んでいくと、シュールリアリズム手法として一見難解なこの詩が、構造的にも
最大限、この時点における現代詩の表現を支えきったものであることがわかる。



18   2003/01/27(Mon) 18:15         那珂太郎「てのひらの風景」

> ふしぎないきもののやうにうごく草ひとつはえぬ丘

 (那珂太郎「てのひらの風景」 中公文庫 日本の詩歌27 現代詩集)

 掌を見ながら、その筋の織りなす様を、丘陵から見下ろす砂丘に喩することでこの詩
は成り立っている。

 てのひらの肉感に合わせたひらがなの多用がすばらしく効果的である。

 手首に近いふくらみのところから指先に向かって展開されるてのひらと砂丘のイメー
ジの関係づけがすばらしく的確だ。

> わかれては出あひはてしなくからみあひはなれゆく道の
> 藻塩やくあまのたく火のたちのぼるおもひ

「わかれては出あひはてしなくからみあひはなれゆく」は、掌の筋の織りなす有様であ
るが「道の」で情景描写に転じ、「藻塩やくあまのたく火のたちのぼるおもひ」と、海
女たちが藻塩を煮る情景が目に浮かんでくる。

 そこから指へと向かい、指紋と砂丘の風紋をダブらせながら、指先の「断崖」の情景
に至るまでの展開。

> うづまく砂の風紋にうもれつひにとだえる岬のはづれ
> こごえおびえつつ 渇きの風のむごい鞭にうたれ
> 無をまさぐる その断崖の
> ゆびのをののき

ここまで、表現の緊張と格調高さを味わいながら確実に2重に構築されたイメージを追
ってきた読者が達する感動と驚愕には計り知れないものがある。

 とは言っても、これは現代詩を読み込んだことのない読者には、数行も読み進むこと
のできない作品であるはずだ。

 およそ抽象的なもの、例えば数学の「代数」のようなものでも、「書き言葉」を「話
し言葉」で咀嚼する過程が必要である。何度か実際の数値を代入して納得してからでな
いとおいそれとは代数のようなものを受け入れることができない。ましてや微分方程式
のようなものを、いきなり解ける人はいないのであって、必ず「話し言葉」化の経過を
たどってより抽象的なレベルを摂取する。現代詩だってそうである。次第に現代詩的表
現に慣れて行くのでなければ「おもしろい」と感じることがあっても深く感動すること
はできない。現代詩の場合、我々は「中公文庫 日本の詩歌27 現代詩集」のような
詩の初心者がきわめてレベルの高い現代詩を享受できることを可能にする有り難い本を
持っている。私はこの文庫本を今でも毎日カバンに入れて持ち歩いている。同じ本の4
冊目で。値段も高くなったが(^_^)これほど得な買い物はない。

 「てのひらの風景」という詩においては、読者は掌と砂丘という2重の場面に釘付け
にされ、砂丘の場面では自ら登場人物となって断崖への道を辿る。この詩には「人生」
といった生乾きのテーマが披露されているわけではなく、構造の2重性に踏み込まざる
を得なかった現代詩の表現の深化をこそ読みとるべきである。

19   2003/07/13(Sun) 12:20   入沢康夫「詩の構造についての覚え書き」   
 本を読んでから随分日が経っているので内容を覚えているかどうかさえ自信がない。
 しかし、作者の言いたいことは次に尽きると思う。

 1.どんな作品においても「詩人」(作者)と「発話者」(語り手)は違う。
 2.「詩人」と「発話者」の間には決定的な断絶があり、傑作には必ず、その断絶克
服のあとが見られる

 2.は私詩的作品に触れた部分であるが、詩全般に対して作者が言いたいことの本質
が示されていると思われる。

  これは構造意識的なジャンルとも言える「シナリオ」のナレータの存在を考えれば
分かり易い。作品に介在せずに「説明」を入れたい場合にはナレーションを挿入させれ
ば よい。同様の機能を担っているのが詩や小説における語りの存在だ。
 
  もちろん、シナリオのナレータと詩や小説の語り手は違う。ナレーションは作品構
造の中で明示的であるが、語りは非明示的である。

  大切なのは「作者」と「語り手」の間に距離があり、それが緊張感となって作品の
価値を形成しているという主張だ。作品の価値を決めるのは個別的な表現のみならず構
造的距離・緊張感であるという主張は、今の時代に作品を書き続ける我々にも、大きな
示唆を与えてくれる。

20   2003/09/23(Sun) 12:22   わたしの行った国

> 何もかもかっ色の国でわたしが兄を見失って泣いていましたら
> 兄が肩に大きな鳥をかついで戻って来て笑いました
> 空にはお月さまが七つも出ていたの

 (入沢康夫「わたしの行った国」 中公文庫 日本の詩歌27 現代詩集)

 夢と幻想の2重構造。場面が幻想を、夢が物語を構成している。
 夢は妹による兄に対する近親相姦と妊娠願望を意識的あるいは了解済みとしており、
そのことで「分析」からの土足侵入を拒否している。
 現代詩の展開の過程では、こうした「分析」を折り込み済みとする経緯が必要とされ
た。
 夢の中には、一見「現実」とかかわりなく登場するモノがあり、それはしばしば無意
識の願望が「検閲」という作用を通して姿を変えて表れたモノである。
 この分析の理論を「喩」の成り立ちに還元すると、我々が詩の中で遭遇する喩える言
葉と喩えられる言葉の関係において、現実的な繋がりは説明できくても両者の関係を共
感できるような例が認められるのは、無意識の欲望という分析的な関係がそこにあるか
らだ、ということになる。少なくとも喩える言葉と喩えられる言葉の間に説明可能な脈
絡は不要になる。むちゃくちゃな言葉を並べただけの詩も、作者が了解済み(これは作
品である)と主張し、読者が共感すればそこに意味が存在しうる。

しかし、まったく無意味な言葉同士に意味を見いだすのも人間の能力ではあるが、その
共感が複数に伝わり社会的な広がりを形成して行くにはいくつかの条件がある。例える
言葉と喩えられる言葉の成立は、作者と読者における社会的な生活や環境、個人の成長
の過程での共通点が前提となる。それから当該ジャンルや周辺芸術の読者としての経験
が次の前提となる。そのうえに作者としての創作上の経験があれば、当該ジャンルの表
現、言葉の使われ方、表現としてぎりぎりのレベルの体感、そういった経過を経て初め
て到達可能となる限界的な表現。そういった表現は単なる言葉と言葉の並列表記の中で
のみ生きることは無いのであって、いわば作品構造の中において初めて表現可能であり
共感可能なのである。

 この詩において、「分析」を飲み込もうとする過程で、現代詩が、幻想を表現する際
に「夢」と「幻想」を構造的に分ける必要があった、そうしなければ一歩も先に進めな
かった、そういった表現史的過程を読みとらなければ、この詩を越える幻想詩は形成さ
れ得ないだろう。

21   2009/09/19(Sat) 12:22  牧歌

> 村にきて
> わたしたち恋をするため裸になる
> 停まる川のとなりで
> 眠らぬ馬をつれだす

 (吉岡実「牧歌」 中公文庫 日本の詩歌27 現代詩集)

吉岡実の詩によって私たちが辿り着くのは、並べられた言葉と言葉、繋がれた行と行
の間にある(約束されたはずの)意味の分裂である。ここまで来てしまった現代詩は意味
の分裂をどこまでも突き進むめるしか方向がないのか。
 しかし私たちは「連句」という歴史を経た表現の中に、その先駆けとしての形式を既視
している。しかも連句の場合は複数の作者によってパーツと全体からなる作品が形づくら
れる。
 この複数の作者によるコラボのような作品は、参加者が他に迎合することなく、作品
全体によって自己を乗り越える契機としてのみ捕らえることで有望なジャンルを形成する
ものと思える。インターネットという複数の作者が集う新しい場において個々の作者が表現
を高めていく契機となるような環境が形成されることを願う。それはしかし、どこまで社会や
集団と離れて自己の中に深く沈潜しうるか、という詩表現が持つ特有の性質と相反する
ものだけに、非常に実現困難と思われる。集合性が個人の能力のレバレッジとして働くよう
な、新しい場の形成が求められている。
 

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