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夢の中の永遠(1)

 
 「夢の中の永遠」(1)

 犬の鳴き声が聞こえる……

それは笹の葉に置かれた水玉であった。霧状の雨滴が冷たい笹の上に露を結んで
周囲の景色を映し出し、ひとつの小さな世界を形づくっている。冷気を収めながら、
次第に自らの透明な重さに耐えきれず、笹の上をゆっくりと滑るように落ちていく。
やがてひと思いに笹の先端を離れると、それぞれ光と闇に分け放ちながら地上めが
けて落下する微細な無数の宇宙となる。それは地表に達するや否や全てを粉々にし
ながら散っていったが、粒子たちは散逸するエネルギーを包みまた霧となって漂い
ながら笹の上に球体を宿すのだった。営みは永遠に続くかと思われた。
 一匹の子犬が生い茂る雑草の中を好奇心に誘われるようにやって来て、笹の葉の
先端に今まさに落ちようとする露をぱくりと飲み込んでしまった時、その小さな宇
宙は瞬時に消滅してしまった。少年たちの活発な会話のやり取りが、子犬の後方か
ら聞こえ、声が次第に大きくなると、やがてその側を通り過ぎていく。犬は遅れま
いと彼らを追いかけ、少年のひとりが両手を広げたその足元に、絡みつくようにじ
ゃれる。少年は犬を抱き上げると両手で胸の高さに掲げた。その後方に、彼らが踏
み込もうとする山の中腹が見え、そこに彼らが「とりで」と名づけた、切り立つ断
崖の上の空き地があった。
 そこから先は、山は白亜の峰とも言うべき石灰の岩山につながっており、裏側に
あたる峰では採石がなされていた。そのため毎日発破が仕掛けられており、子供が
登ることは禁止されていた。とりあえず安全圏の最前線がその「とりで」までの部
分であり、少年たちは薮から竹を切ってきては周囲の雑木を利用し、少しの風雨に
なら耐える程度の「陣地」を器用に構えたりした。そこまで行くには小道のような
ものがあるにはあるが、それに飽き足りず、未知の危険に満ち満ちた竹薮や木々の
ただ中に彼ら独自の「秘密の近道」が準備されていた。今、彼らはその隠された道
に踏み込むべく、濡れた茂みに向かって歩を進めるのである。

          *           *
 それは「牧羊ネット」のオフミーティングの前夜のことだ。
 深夜の街を、おれは「犬」を捜して歩き続けた。ポツリポツリと雨が落ちてくる。
どんなに夜が更けても街灯の明かりは町並みに続いており、歩くには困らない。犬
の名を呼びながら、バス通りの、人家や商店の看板灯や至るところに置かれてある
自動販売機の前を通りながら、停留所二つ分を歩いた。
 犬は、コンビニエンス・ストアの前につながれていたのだが、妻が買い物をして
いる最中にどうやってか首輪を外して鉄柱を離れた。通行人の話では、店の前の交
差点に踏み込んだ途端にカーブしてきた車のバンパーに触れて、驚きのあまりまっ
しぐらに駆けだしたという。とにかくこの道を来たことは間違いない。しかし、飼
い犬が、いくらショックのあまりとはいえ、「巣」から離れる方角にここまで一気
に走り通すだろうかという疑問がわいてくる。三差路の信号の手前でおれは止まり、
ちらっと交番の方を見た。警察官が見かけているかもしれない。しかし、あくまで
まっすぐ行くと産業道路を渡るようになるが、いくらなんでもはねられそうになっ
た直後の犬が車の波をよぎって大通りを渡るだろうか。通りに面した場所に出ると
そのまま左に曲がった。あとはつづら折りに家の方へ向かって捜すほかはない。雨
が少しずつ強くなっていく。
おれは、犬には無頓着でいた。当時小学校五年生になったばかりの娘が、冷たい
雨の中に捨てられていた子犬を拾ってきた時も、飼うなんてつもりはまったくなか
ったのだ。
 「社宅の自転車置き場に捨てられてたのよ。雨の中をおなかすかして鳴いている
のに誰もえさをあげないの。かわいそうでしょう」
 娘は玄関先で濡れた犬を抱えたまま動こうとしない。
 「このまま放っていると朝までには死んでしまうかもしまうかもしれないね」
 妻はもともと犬好きなので、娘を援護するために間に立ちはだかって、かわいそ
うを連呼する。
 「しょうがない。飼い主が見つかるまで表においとくか」
 おれはそういった条件つきで門戸の手前の歩幅二つ分くらいの場所に置いてやる
ことにした。しかし飼うスペースのことと、共稼ぎで昼間は誰もいなくなることな
どのためにそのままにしておくことはできない。妻は、しばらくは引き取り手を熱
心に探していた。
 子犬は、雑種だが茶色い毛がふさふさしており、丸っこくて四肢の先が真白く、
目がぱっちりしている。通行人のなかには足を止めて声をかけたりする者も少なく
なかったが、なかなか引き取って育てるという相手は見つからない。そのうちに妻
も娘も「どうしても飼いたい」と主張するようになった。おれは場合によっては川
の向こうにでも捨てようと思っていたので当初は反対した。
 しかし、そのころ妻はローンの返済や職場の人間関係のいざこざから、極度の不
眠症に陥っていた。病院からもらってくる精神安定剤や睡眠薬も処方の量を越えて
飲むのか、酩酊のような状態をもたらすことがあった。それが明らかに子犬のおか
げで随分快方に向かっていたのだ。散歩から帰るたびに犬の様子を報告する妻の明
るい表情に、おれは娘と顔を見合わすこともあった。結局、黙認することにした。
 路地を歩いているうちにおれは寺の裏の、壁向こうに墓の見えるところまで来て
いた。こんな町の中を歩いているときに、突然のように寺が現れて来て、墓がある
のが不思議でならなかった。駅から離れているので、さすがに高いビルはそれほど
建ってはいないが、周囲は結構密集した商店街である。ここだけに明かりがまった
くない一角がぽつんとあるのが不思議に感じられてならない。
 犬の名を呼び続けながら、歩いたことのない路地をまた少し行ったところで、今
度は小さな公園に出くわした。ブランコ、すべり台、砂場、鉄棒、何本かの落葉樹
が植えられており、真ん中に水銀灯がともっている。こんな公園が近くにあったの
かと、また驚いた。雨は、次第に本降りになってきた。
 おれは犬には冷淡であり続けた。会社から帰ると、犬はしっぽを振りながら伸び
上がって門戸の上に前足をかけ、歓迎の動作をする。そして、そのあと必ず全身を
ぶるぶると震わせる。このとき無数の毛が犬の体から周囲に飛散して衣服に付着す
るであろうことが耐えられないのだ。いったん門戸から離れ、毛の浮遊が収まるの
を待ってからうちに入った。
 雨はいよいよ強くなってきた。何故、おれはこうまでして犬を捜しまわっている
のだろうか。いいかげんびしょ濡れになってしまった。最後の角を小走りに回ると
自分のうちのある路地に踏み入る。うちの前には妻と娘が辺りをはばかって小声で
犬の名前を呼びながら、濡れねずみのままに、祈るような格好で立ちすくんでいた。
おれは妻の不眠の再発を心の底から恐れていたのかもしれない。

風呂から出るころには雨は集中豪雨並みになっていた。明け方にはやむだろうし、
犬も朝になったら帰ってくるだろう。そう慰めながら妻と娘を寝かしつけると、お
れはパソコンに向かった。明日「牧羊ネット」のオフミーティングに出れるかどう
かまだ返事をしてなかったのだ。そのネットは、開局して日も浅く、会員も三十名
ほどのいわゆる草の根BBSであった。単回線なので他の会員とは「チャット」と
いう、画面に文字を入力することで行われる会話は試みることはできなかった。し
かし、しばしばホストの運営者であるシスオペ自身がチャットに誘ってくれて、パ
ソコン通信のいろんなノウハウを教えてくれた。
 おれも妻も、ほぼ同じ頃仕事でパソコンを使うようになったのだが、当初は、と
にかく操作を覚えなければ取り残されてしまうかもしれないといった、一種の恐怖
感に襲われ、夜中まで必死で練習した。しかし会社のパソコンで、どうにか仕事に
必要なソフトだけでも使いこなせるようになったため、わが家のパソコンはほとん
ど見向かれることもなく、ほこりを被るようになっていた。ところが会社の同僚が
「これからはネットワーク通信時代だ」などと言い出し、ワープロや表計算だけで
は時代に取り残されるなどと吹聴するのを聞いて、ひそかにパソコン通信をやろう
と思い立ったのだ。
 そこでさっそく初心者向けの記事のある専門誌を購入したり、ソフトやモデムを
買って準備した。専門誌には全国のBBSの所在地、電話番号、通信に必要なデー
タの一覧表が載っていた。それによって、うちから歩いて遠くない場所にも「牧羊
ネット」という草の根のBBSがあることがわかった。とりあえずここにアクセス
してみようとおれは思ったのだ。
 「牧羊ネット」はほんの小さなBBSだったが、パソコン通信そのものが素人の
おれにとっては、不明な点をすぐ教えてもらえる大変ありがたいネットだった。チ
ャットで、シスオペは「わたし自身がパソコンもパソコン通信さえもほとんど素人
なんですよ」と言いながら、粘り強くわかるまで通信上のいろいろなことを教えて
くれた。ネットの構成は「フリーボード」と言われる、掲示板で意見や情報のやり
取りが行われるコーナーがいくつかあるだけの単純なものだった。会員は三十名ほ
どだが、ほとんどは入会のあいさつ程度の書き込みで姿を見せなくなり、いわゆる
アクティブ会員は五・六人程度に思えた。(会員は本名でなく「ハンドルネーム」
いう仮名を表示する)おれも少しずつ書き込みをするようになり、その時々の話題
に他の会員たちと意見の交換が出来るようになった。
 「オフミーティング」というのは、ネット上のつき合いだけでなく、たまに会員
が集まって交歓会のようなものをやるのだが、明日出席しそうなのは数名だけで、
その人たちさえもボード上にはっきり出席の意思表示はしてなかった。おれの場合
も仕事の都合で、日曜日といえども直前にならないと都合がわからないこともあっ
て返事は差し控えていた。だが、シスオペが同世代ということもあり、世話になっ
ている礼を一言述べたい気持ちが強く作用し、出席を決めたのだ。
 この夜、牧羊ネットにアクセスするとシスオペはいなかった。おれは出席の意を
記入した電子メールをシスオペ宛に出して、ざっとボードの未読を読みとるとログ
オフした。
 
 翌朝、雨はやみ、おれは妻と再び犬を捜して歩いた。これまでも散歩の途中に首
輪を抜けて逃げだしたことがあり、その時には犬はすぐにうちの近くまで戻ってき
たらしい。だから今回、帰ってこなかったのは、鉄柱にくくられているときによほ
どひどい目にあったか、車のバンパーに触れたときのショックが大きくて、とにか
くまっしぐらに逃げられるところまで遠くに逃げ、帰ってこれなくなったんだろう。
 「もういいよ」
 産業道路に面した場所まで来て、妻がぽつんと言った独り言が、おれの耳を脅か
した。
 「一生懸命育ててやったんだから。充分にかわいがってやったんだから」
 おれは大通りに目をやりながら、疾走するスピードそのままに、車の流れに身を
躍らせる犬の姿を思い浮かべた。
 

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